白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

「自然は芸術を模倣する」

岸見一郎著『三木清『人生論ノート』を読む』の読者からご質問をいただいておりました。

ご質問の趣旨は次のようなものです。

三木清『人生論ノート』を読む』の105頁に「自然は芸術を模倣するというのはよく知られた言葉である」とあるが、芸術は人間の営みであり、自然は人間に先だって存在するのに、なぜこのように言われるのか?

ご指摘の箇所は、三木清『人生論ノート』の「虚栄について」にある文です。

岸見さんがコメントしていない箇所なので、『三木清『人生論ノート』を読む』の注を担当した白澤社編集部の責任でお応えいたします。

ご指摘の三木の文「自然は芸術を模倣するというのはよく知られた言葉である。」は、「自然は芸術を模倣する」という「よく知られた言葉」に注目を促すものです。

「自然は芸術を模倣する」という言葉は、小説『幸福な王子』や『ドリアン・グレイの肖像』、戯曲『サロメ』、自伝的評論『獄中記』などで知られているイギリスの文学者オスカー・ワイルド1854-1900)の言葉だとされています。

そこで、ワイルドの著作のなかに、この「自然は芸術を模倣する」という言葉の出典を捜してみますと、対話形式の評論「嘘の衰退」の結論部分の一節にありました。

西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集 4』(青土社49頁より引きます。

第三の原理は「藝術」が「人生」を模倣するよりもはるか以上に「人生」こそ「藝術」を模倣するということである。(中略)

その結果、これの必然的帰結として、外界の「自然」もまた「藝術」を模倣するということになる。「自然」がぼくらに見せることのできる唯一の効果とはぼくらがすでに詩を通じて、または絵のなかに見てきた効果にすぎない。これが「自然」の魅力の秘密であると同時に、また「自然」の弱点の説明でもあるわけなのだ。

このワイルドの言葉について、三木清は「ネオヒューマニズムの問題と文學」(岩波版全集第十一巻所収)で解説しています。

以下に該当箇所を引用します(引用にあたり一部の漢字を現行のものにかえています)。 

藝術は藝術的に人間を創造することによつて現實の人間を變化する。オスカー・ワイルドの言葉はよく知られてゐる。「自然は藝術作品がそれに供するところのものを模倣する。」人間といふ自然は藝術家の創造した人間を模倣することによつて自分自身を變化する。人の顏つきを讀み、姿や身振を判ずることにおいて、画家が我々の教師であつた。詩人は人間を理解するための我々の器官であり、そして彼等は如何に我々が戀愛や社交において振舞ふかといふ仕方に影響を與へる。藝術家の創造した人間タイプは、いましがた道で會つたばかりの人間よりも鮮かに我々の目の前にあつて、我々は我々の生活の細部に至るまで知らず識らずそれを模倣してゐる。藝術家が社會的革新に參與するといふことは、政治的實踐の問題としてだけでなく、特にこのやうな方面から考へてみなければならないことである。 

これが三木清による、「自然は芸術を模倣する」(ワイルド)についての説明となります。

はたして十分なお応えになったかどうかわかりませんが、三木の考えを三木以上に詳しく説明することは小社の手にあまる課題ですので、上掲の三木清の文章をもって回答にかえさせていただきます。

なお、三木清「ネオヒューマニズムの問題と文学」は、大澤聡編『三木清文芸批評集』(講談社文芸文庫)にも現代仮名遣いで収録されています。

版元・講談社さんの紹介サイト↓

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211320

 

お尋ねは夏の初めにいただいていたのに、お応えするのがすっかり遅くなってしまいした。

たいへんお待たせいたしましたが、ようやく夏休みの宿題を片づけたような気分です。

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