神戸神話・神話学研究会、植朗子、清川祥恵、南郷晃子編『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法』(文学通信)を拝読しました。
版元・文学通信さんのサイトはこちら↓同書の「はじめに」が読めます。
「はじめに」を公開『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法』 - 文学通信|多様な情報をつなげ、多くの「問い」を世に生み出す出版社
文学通信さんは、先日このブログで取り上げた近藤瑞木『江戸の怪談――近世怪異文芸論考』といい、面白そうなご本を続々と出されています。小社も見習わなければ。
本書は17人の共著者がそれぞれの選んだ話題について論じているのですが、各章の冒頭に担当執筆者のアプローチ方法とその章で取り上げる作品概要が掲載されています。つまり、どのような視点、方法でどういう作品を扱うのかを読者に明示しているわけです。
17人の著者が取り上げる作品は公開されている「はじめに」にあるようにさまざまです。そこでタイトルにある少年が聖剣を手にする話と死神(またはそれに準ずる敵役)が出てくる話を扱った章のいくつかについて書き留めるにとどめます。
南郷晃子「米津玄師「死神」考」はタイトルには米津玄師「死神」が挙げられていますが、そこを入り口にして三遊亭圓朝の落語「死神」とその背景にある前近代からの伝承を考察します。落語「死神」の元の話はヨーロッパの民話です(小社はイタロ・カルヴィーノ編『カルヴィーノ イタリア民話集』(岩波文庫)で類話を読みました)。しかし、南郷は物語のパターンにとどまらず死神そのものの性格(キャラクター)の源流を求めて近世文学やそれに影響を与えた中国の伝説に手を伸ばしていきます。実は結論もさることながら、そこにいたる過程が面白い。特に三好想山『想山著聞奇集』より「死に神の付たると云は嘘とも云難き事」の紹介は絶妙で、江戸時代の大阪・戎橋と現代のその場所がオーバーラップして、今宵もネオンまたたく道頓堀を逃げ惑う男がいるのじゃないかと想像が広がります。
川村悠人「死神たちは言葉を振るう――『BLEACH』と古代インドにおける言葉と詠唱」は本書タイトルのど真ん中を射たような考察です。『BLEACH』での死神は冥界の警察官のような役割を果たす存在です。その多くは高校生である主人公をはじめ少年・青年と言ってもいい若者たちです。そして死神たちは敵と戦うときに斬魄刀という刀をふるいます。川村は死神が超能力を発揮するときに唱える呪文のような文句(詠唱)に注目して、それをインド神話に登場する呪句と比較しています。聖剣をふるう死神となった少年を描くポップカルチャーをインド神話で読み解く一つの方法が示されています。
植朗子「『鬼滅の刃』炭治郎に継承される「聖剣」――日輪刀と刀鍛冶の物語」は剣(刀)に焦点を当てます。『鬼滅の刃』は、敵役の「鬼」を死神のヴァリエーションに見立てれば、少年、剣、死神の三題噺になるのですが、植はあえて主人公たちが鬼を斬るために振るう剣(日輪刀)に話題を絞り込んでいます。植は『鬼滅』の主人公・炭治郎(少年)の日輪刀――それは鬼殺隊剣士のふるう超人的な剣技の始祖の愛刀――の継承の物語を、『古事記』の草薙剣やアーサー王のエクスカリバーといった聖剣伝説と比較しながら、『鬼滅』における聖剣の伝承が一つの神話となっていることを論じていますが、重要な指摘をしています。聖剣(またその力や剣技)の継承には血統が関係することが多いのに、『鬼滅』における聖剣の継承は血統によるものではないということです。
超人的な剣技の始祖の技は、『鬼滅』の登場人物には鬼となった彼の兄やその子孫(鬼殺隊剣士)もいるのに、赤の他人である炭治郎の先祖に継承されました。以来、ひたすら実直に子々孫々に伝え「驚くほど正確に伝わっていました」。これは天才でも超人でもない人々の努力によるものです。そして、数百年の時を超えて発見された始祖の聖剣の隠されていた人形を守っていたのも、すっかり錆びついていたその刀を命がけで研ぎなおし再生したのも、やはり天才や超人の血統ではない「ただの人」、うまずたゆまず技術を継承してきた刀鍛冶の里の人々であったことを植は指摘します。「ただの人」である刀鍛冶が守り再生した聖剣と、「ただの人」である炭焼きの一家が継承した剣技を、炭治郎は継承するのです。これは考えてみれば『古事記』やアーサー王伝説という神話・伝説を、血統にも、それに準ずる特殊な文化にもよらずに、現代の漫画家が継承していることを示唆しているようにも感じられて興味深く読みました。
すっかり長くなってしまいました。本書はこの他にも面白い論考がずらりと並んでいますのでご一読をお勧めします。