白澤社ブログ

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子安宣邦編著『三木清遺稿「親鸞」』が紹介

浄土真宗本願寺派総合研究所のサイトで、子安宣邦編著『三木清遺稿「親鸞」―死と伝統について』が紹介されました。
浄土真宗本願寺派総合研究所仏教書レビューのページ↓
http://j-soken.jp/read/9493
評者は芝原弘記(浄土真宗本願寺派総合研究所研究員)さん。
浄土真宗本願寺派といえば、本書『三木清遺稿「親鸞」』の主題である親鸞を祖とする宗派です。本書をどのように読んでくださったのか、小社としても興味津々です。
少しご紹介します。
評者の芝原さんは本書を「「三木清という哲学者が親鸞聖人をどのように語っているのか、ちょっと読んでみよう」という軽い気持ちで手に取った」のだそうです。「結果、希有なる一冊に出会えたことを喜んでいる」と、書いてくださいました。
いったい、どういうところが「稀有」であったのか。
芝原さんは、本書の「他にはない独自性」として、「遺稿「親鸞」を通して三木清と出会った、子安宣邦の体験の物語として編まれている」と指摘しています。
実際、本書は単なるアンソロジーではありません。
編著者である子安先生自身、次のように述べられています。

私は三木の遺稿「親鸞」が読み直されることを願っている。だがそれが本当に読み直され、三木の思念が我々に再生するかどうかは、この時代を我々の内においても外においても根源的な転換が遂げられねばならぬ末法の時代として自覚するかどうかにかかっている。(本書22頁、編者による序「遺稿「親鸞」から三木清を読む」(子安宣邦)より)

三木が親鸞をいかに読んだかを、現代のわれわれはいかに読み解くべきか、この問題意識に貫かれて編まれた一書が『三木清遺稿「親鸞」』です。
この点を、芝原さんはご自身の思いも重ねて次のように書かれています。

子安は遺稿「親鸞」を、「三木自身のための親鸞論」であり「〈私的〉な性格を持った著作」(11ページ)であると評する。〈私的〉とは、三木にとって「自己の人間と生のあり方への反省に立つものである」(同ページ)ということである。つまりここには、昭和の戦前戦中という激動の時代を生きた三木清という人間において体験された宗教があらわされているということができる。そして、それは三木個人の体験で終わるものではない。三木は親鸞聖人の思想について、「悉く自己の体験によって裏打ちされている」(23ページ)という。つまり、阿弥陀如来の本願という真実に照らされて、末法内存在の凡愚であることを自己の体験として生きた親鸞聖人、その親鸞聖人の思想を自分自身の生の出来事として体験的に受けとめ、遺稿「親鸞」を著した三木清、その遺稿「親鸞」を通して三木と出会った体験を一冊の書物として世に送りたした子安宣邦、さらには、評者もまた、本書を読み終えたとき、親鸞聖人の思想を自分自身に寄せて体験的に受けとめようとする思いを持った。本書は、そのように幾重にも重なる「体験」によって貫かれているように思われた。


芝原さん、心のこもったご紹介をいただき、ありがとうございました。