小川公代さんの評論「オスカー・ワイルドの越境するケア」(『群像』2月号掲載)で、『ケアするのは誰か?──新しい民主主義のかたちへ』(J・C・トロント著/岡野八代訳・著)が言及されました!
取り上げてくださった小川公代さん(上智大学)は、共著に『病いと身体の英米文学』(玉井暲,・仙葉豊編、英宝社)や『幻想と怪奇の英文学』1・2・4(東雅夫・下楠昌哉編、春風社)のある英文学研究者です。小川さんは『群像』誌に短期集中連作中の評論「ケアの倫理とエンパワメント」の第2回「オスカー・ワイルドの越境するケア」の冒頭で『ケアするのは誰か?』を紹介してくださっています。
正直なところ、ケアの倫理とオスカー・ワイルドの文学がどうつながるのか、見当がつかずに面食らったような気分で読みはじめたのですが、「コロナ禍が長期化するなか、「ケアするのは誰か?」という問題提起がなされている。」と書き出されたこの評論は、『ケアするのは誰か?』に収められたトロントさんの講演と岡野八代さんの論文のエッセンスを紹介しながら、「ケアは人類的な活動」だというトロントさんの視点を、オスカー・ワイルドの文学につなげていきます。
「ワイルドが己の「魂」を重要視した理由は『獄中記』に綴られている。「物の奴隷になり下がるために自由を浪費する者らや、柔らかな衣服に身を包み王の住処に住む者ら」に対して、彼は憐みを感じていた。キリストが「「汝の持てるものをすべて売り払い、その金を貧しい者に施しなさい」と言った際、キリストの頭にあったのは貧しい者の状態ではなく、若者の魂のことだった」(『獄中記』、一八一頁)。ケアの倫理の言説とワイルドの『獄中記』や「幸福な王子」とは驚くべき近接性がある。トロントが新自由主義を牽制する態度は、ワイルドがキリストのイメージと重ねた言葉とも響き合う。」(『群像』2021年2月号、講談社、p132)。
「ケアの倫理の言説とワイルドの『獄中記』や「幸福な王子」とは驚くべき近接性がある」!
まさに驚くべき指摘ですが、これが決して奇をてらった議論ではないことは、ぜひぜひ『群像』2月号掲載の小川公代「オスカー・ワイルドの越境するケア」をご覧になってご確認ください。
『群像』の版元・講談社さんの公式サイト↓
『ケアするのは誰か?』は紹介続々で、小社でもすべてをフォローしきれておりません。今後も休み休みリポートします。