白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

大澤聡編『三木清文芸批評集』講談社文芸文庫

「特殊の場合を除き、現在純文学の読者の数は恐らく千か二千である。」
手に取った本を開くなりパッと目に飛び込んできたのがこの一行でした。
三木清文芸批評集』(大澤聡編、講談社文芸文庫)に収められた「通俗性について」と題されたエッセイ中の文章です。
これは1937年に書かれたものですが、「純文学」という語を、人文書、に置き換えれば、2017年現在でも、少なくとも小社の場合は通じるものがあります。

評論や哲学においても同様であり、それらは文壇、論壇、哲学界というような特殊圏の内部で、結局からまわりをしているに過ぎず、圏外にある大衆とは無関係なものになっている。これで果して好いのであるかという不安を著作家が感じるようになってきたのは当然である。

まったくおっしゃるとおり、「これで果して好いのであるか」。そう、三木がこの文を書いてから80年たった今でも、これで果して好いのであるかと自問する日々です。
日本に文庫・新書という出版の形式を持ち込んだ出版人でもあった三木は、次のように言います。

求められているのはもとよりいわゆる大衆文学におけるが如き、封建的なものを多分に含む「庶民性」ではない。大衆そのものが歴史的、時代的に考えられねばならぬ。時代的であるということは通俗性の基礎である。我々はここで前に引用したゲーテの言葉を再び想ひ起すべきであろう。時代的であることが時代に追随することであっては、それは俗悪というものである。

引用文中の「前に引用したゲーテの言葉」というのは、次の通りです。

ゲーテが「唯一の永続力ある作品は折にふれての作品である」といった言葉には真理が含まれている。

同時代的な(折にふれての)出版でありながら、時代に追随しない出版。
さて、どうしたらよいものか。
版元・講談社さんの紹介サイトより↓

「哲学と文学とは根本において同じ問題をもっている。そのような問題は、例えば、運命の問題である。自由と必然の問題、道徳と感性との対立の問題である。」
哲学者にして評論家の三木清はまた、稀代の文芸批評家でもあった。
批評論・文学論・状況論の三部構成で、その豊かな批評眼を読み解く。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062903592