白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

なぜ三木清か

しばらくのあいだ、新刊『三木清『人生論ノート』を読む』の刊行を記念して、編集こぼれ話を続けます。

最初の話題はやっぱりこれでしょうか。
なぜ三木清か。
もう少し詳しくいうと、なぜアドラー心理学で有名な岸見一郎さんに哲学者・三木清を論じる本のご執筆をお願いしたのか、です。
岸見一郎さんといえばベストセラーになった『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)のイメージが強いためか、著者にとって畑違いの企画ではないのかとのお尋ねをしばしばいただきました。
けれども、小社にとっては、そしてたぶん岸見さんにとっても、ものすごく自然な流れでこうなったのです。
話は十年以上前にさかのぼります。
2005年のことでした。小社から刊行した高橋哲哉『反・哲学入門』を岸見さんがご自分のブログで取り上げてくださったのをきっかけにして交流がはじまりました。
初めてお会いしたのは2005年の暮れ、京都駅ビルの喫茶店で話し込んだのでした。
たしか、岸見さんが師事された故・藤澤令夫先生の想い出話やらをうかがったと記憶しています。
岸見さんは、すでにアドラーの翻訳やアドラー心理学の入門書も出されていて、そのことは小社も知っておりましたが、岸見さんについて小社のもった印象は、心理学もできる哲学者というものでした。
サルトルやメルロ-ポンティを読まれた方ならすぐに納得してくださると思いますが、哲学と心理学はもともととても近いジャンルですし、心理学のなかでもアドラーもそこに含まれる広義の精神分析学派の学説は、現代哲学が好んで取り上げる題材です。
ですから、岸見さんが哲学科の出身で、古代ギリシア哲学とアドラー心理学を並行して研究していることになんの違和感もいだきませんでした。
そこで、アドラー心理学の方は当時から別の版元さんで出されていたので、小社からは哲学の本を出しましょう、とお約束して別れたのでした。
その後、何度かの試行錯誤を重ねて、2010年頃からプラトンティマイオス/クリティアス』の新訳に取り組んでいただき、あまりの難解さに気が遠くなりながらの編集作業を経てついに昨年刊行いたしました。

この岸見訳『ティマイオス/クリティアス』の編集作業のなかから、三木清を岸見さんに論じてもらったら、というアイデアが生まれたのです。
ティマイオス/クリティアス』に収録した岸見さんによる訳者解説によれば、プラトンティマイオス』はプラトンの著作中、後世の著作家たちによってもっとも多く引用・参照されてきたのだそうです。
とくに『ティマイオス』に登場する「コーラ―」(場所、場などと訳される)は、現代でもデリダが論じたことで有名です(デリダ『コーラ』未来社)。
それでは日本ではどうかというと、とっさに思い出せるのは西田幾多郎の論文「場所」と、西田の議論をふまえた中村雄二郎『場所』と上田閑照『場所』(いずれも弘文堂)くらいです。
けれども、西田が読んでいたなら京都学派のほかの誰かも読んでいたはずだろうと、ふと手元にあった三木清『人生論ノート』(新潮文庫)をパラパラッと開いたら、「人間の条件について」と「秩序について」の章にそれらしき断章があるのではありませんか。
思わず岸見さんに電話しました。「岸見先生っ、三木が『ティマイオス』を読んだ形跡がありますよ!」。
そうしたら、なんと岸見さんは高校生のころからの三木の愛読者だとのこと。
そこから話がふくらんで、このたびの『三木清『人生論ノート』を読む』の刊行にいたったわけですが、長くなりましたので何がどうふくらんだのかはまた別の機会に。