白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

『サルトル読本』

今年はサルトル生誕110周年にあたるのですね。
小社刊『哲学のモンダイ』の著者、永野潤さんからご著書『サルトル読本』(澤田直編、法政大学出版局)をご恵贈いただきました。
版元・法政大学出版局さんの紹介ページより↓
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15069-2.html

実存主義の哲学者、小説や戯曲の作家、そして行動する知識人として様々な活動を行ったサルトルドゥルーズレヴィナスボーヴォワールハイデガーバタイユラカンフェミニズムポストコロニアルエコロジーなど多方面にわたる影響関係、再評価されるイマージュ論や、晩年の『倫理学ノート』など最新の研究も紹介し、いまなおアクチュアルに読み継がれるその全体像を明らかにする。

上掲サイトの目次をご覧になれば、ものすごい充実ぶりであることは一目瞭然。
季節柄、社員一同が花粉症に悩まされている小社は、まずはフランソワ・ヌーデルマン氏の「サルトルの花粉」に飛びつきました。
ヌーデルマン氏は昨年暮れに来日したので謦咳に接した方もおられるのではないでしょうか。音楽に造詣の深い哲学者で、著書『ピアノを弾く哲学者――サルトルニーチェ、バルト』(橘明美訳、太田出版)も邦訳されました。
サルトル読本』に寄せたこのエッセイ「サルトルの花粉」でも、ピアノを弾くサルトルに言及していますね。
そして、ピアノを弾く哲学者といえば、サルトルニーチェ、バルトに続いて、『哲学のモンダイ』の著者、永野潤さんを挙げるべきだと、強く思うのです。(えっと、次のライブは4/7か…、ごめんなさい。行けません。http://aulapinagile.bluemoonjazz.com/
その永野さんは、第3部サルトルの問題構成に「サルトルの知識人論と日本社会──サルトルを乗り越えるということ」という力のこもった論文を寄せておられます。
永野さんは、サルトルの言う「知識人」とは、日本でしばしば揶揄的に語られる「サルトル的知識人」とは内容が違うことを、サルトルの日本講演『知識人の擁護』(人文書院)におけるサルトル自身の言葉から見事に析出しています。
こうした永野さんの議論は、「サルトルの知識人論と日本社会」というお題から、日本におけるサルトル受容史を期待された読者がいたとしたら意外に感じられるかもしれません。
しかし、永野さんがしていることの眼目は、単にサルトルについての誤解や偏見を正すということだけではなく、むしろ誤解や偏見をのさばらせている現代日本社会の知的退廃を、サルトルの知識人論をてこにして批判することにあるのだと思います。意義深い問題提起だと感銘を受けました。
その他の方々のご論文も力作ぞろいで、例えば、エピステモロジーの文脈でサルトルを読むという生方淳子氏の意表を突いた試み「エピステモロジーとしてのサルトル哲学」や、未邦訳の「倫理学ノート」を芸術論と比較した森功次氏の「芸術は道徳に寄与するのか」、アンドレ・ゴルツのエコロジーサルトルを比較して論じた鈴木正道氏の「エコロジストという実存主義者」等々、これまで手薄だった視点からの議論も多々あって読み応え十分です。