白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

『書標10月号』で『歎異抄の近代』紹介

『書標』(ほんのしるべ)の10月号で、小社刊、子安宣邦著『歎異抄の近代』が紹介されました。
『書標』はジュンク堂書店さん発行の書評誌です。
(フ)氏による書評は次のように書きだされています。

近代日本の知識人たちの多様な「親鸞」体験に、思想史家子安宣邦が対峙する。本書は、実に多層的で立体的な読書体験を与えながら、そこに浮かびあがってくるのは、やはり親鸞の〈信〉であった。

「多層的で立体的な読書体験」という指摘はまさに本書『歎異抄の近代』の特徴の一つです。
本書の目次を再掲します。

序 章 なぜ「歎異抄の近代」なのか
第1章 〈清沢満之の1〉清沢満之をどう読むべきか
第2章 〈清沢満之の2〉「精神主義」的〈信〉の表明──清沢満之精神主義』を読む
第3章 〈清沢満之の3〉清沢はなぜ儒家的〈公〉をいうのか──清沢満之『有限無限録』を読む
第4章 〈清沢満之の4〉天命に安んじて人事を尽くす──清沢満之「宗教的道徳(俗諦)論」を読む
第5章 〈暁烏敏の1〉『歎異抄』はいかに語り出されたのか──暁烏敏歎異抄講話』『わが歎異抄』を読む
第6章 〈暁烏敏の2〉『歎異抄』が近代に語り出されるとき──暁烏敏歎異抄講話』『わが歎異抄』再読
第7章 〈倉田百三〉『歎異抄』の文学化・〈愛〉の教説──倉田百三出家とその弟子』を読む
第8章 〈丹羽文雄〉『歎異抄』と〈愛慾〉小説の成立──丹羽文雄菩提樹』を読む
第9章 〈鈴木大拙〉なぜ「日本的霊性」なのか──鈴木大拙『日本的霊性』を読む
第10章 〈三木清〉私は宗教的傾向をもつ人間である──三木清親鸞」を読む
第11章 〈野間宏の1〉わが塔はいかに立つのか──野間宏『わが塔はそこに立つ』を読む
第12章 〈野間宏の2〉〈過去〉との読み直し的和解──野間宏『わが塔はそこに立つ』再読
第13章 〈吉本隆明の1〉この〈思想劇〉をどう読むのか──吉本隆明『最後の親鸞』を読む
第14章 〈吉本隆明の2〉僧にあらず俗にあらず──吉本隆明『最後の親鸞』再読
第15章 〈滝沢克己親鸞一人がためなりけり──滝沢克己『「歎異抄」と現代』を読む
あとがきに代えて

これだけご覧になると、あたかも本書は清沢満之暁烏敏倉田百三丹羽文雄鈴木大拙三木清野間宏吉本隆明滝沢克己といった人びとの、それぞれの親鸞論、『歎異抄』論を読み解いた記録のように見えるかもしれません。しかし実際は、たとえば上掲の『書標』からの引用文に続く文章で(フ)氏が指摘しているように、暁烏敏論は倉田百三論、丹羽文雄論の前提となり、野間宏論と吉本隆明論は関連しています。そもそも暁烏敏論に先立つ清沢満之論で、今村仁司の清沢論を取り上げながら、すでに吉本隆明野間宏三木清の名前が出てきているのです。
あまりこまかく挙げていくと、これからお読みになる方の楽しみが減ってしまうでしょうからこれくらいにしておきますが、本書『歎異抄の近代』はそこかしこに伏線をはりめぐらせた、まさに「多層的で立体的な」本なのです。
『書標』はジュンク堂書店さんの店頭でも手に入ります。
ジュンク堂書店さん、(フ)さん、ありがとうございました。