白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

木前利秋『メタ構想力』――木前利秋先生を偲んで

木前利秋先生(大阪大学人間科学研究科教授)が、去る12月4日にご逝去されたとのお知らせをいただきました。享年62歳とのことでした。謹んでお悔やみを申し上げます。
木前先生には、小社では『変容するシティズンシップ』(2011)、『葛藤するシティズンシップ』(2012)の編著者としてお世話になりました。10月に小社から表弘一郎著『アドルノの社会理論』を刊行したのも木前先生のご縁によるものです。
木前先生の緻密で鋭利なご論文は以前より拝読しておりましたが、実際にお会いしてみるとお書きになるものから想像していたのとは違って、あたたかく気さくなお人柄で、そのギャップに驚いたものでした。
シティズンシップ論の二冊目『葛藤するシティズンシップ』の編集会議の際に「これで完結ですね」と申し上げたら、「いや、まだまだ。取り上げていないテーマがあるから元気になったら第三弾も企画したい」とおっしゃって構想を語っておられました。小社でも木前先生のご健康の回復を待ってとりかかるつもりでおりましたが、それも夢となりました。未来社さんのPR誌『未来』で連載されていたハーバーマス論も未完とうかがっております。おそらくスケールの大きな民主主義論を構想されていたのだろうと拝察いたします。編集者として、また一読者としてそれを拝読できなかったことが残念でなりません。
先週末のご葬儀にはうかがえなかったものですから、この土日は、木前先生生前唯一の単著である『メタ構想力--ヴィーコマルクスアーレント』(2008、未来社)を拝読しながら、学徳を偲んでおりました。
版元・未来社さんの紹介サイト↓
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624932572
同書は、真ん中あたりの頁をパッと開くとチンパンジーの話が延々と続くので面食らいますが、副題にあるとおり、ヴィーコマルクスアーレントという三人の思想家に共通する歴史認識の構えを、「メタ構想力」というキー概念から読み解くものです。メタ構想力とは同書第一部「ヴィーコと真理の技法」でヴィーコ解釈から引き出したものですが、「あとがき」にはもう少しくだけた説明もあります。

メタ構想力とはメタ次元にある構想力のことである。といっても哲学畑の話ではない。哲学の目抜き通りからはずれて横町の思想史をウロウロしているうちに目に止まったテーマである。狙いとしたのも、たんにいまここに存在しないものを好き勝手にあれこれ思い描く能力のことではない。ひとはよく、いまここにはいない他人が何をどう思い何をなぜ考えているのか、あれこれ推測したり思案したりする。他人の身になって考える、相手の立場に立って想像するなどと言う。カントも「すべての他者の身になって考えること」を「視野の広い思考方式」だと言った。すべての他者には当然ながら現にここにはいない不在の他者も含まれる。簡単に言えばこうした他人が考えていることについて自分が考えてみること、表象の表象、広い意味での他者の構想力にかんする自己の構想力、メタレベルにおかれた構想力というべきものが主題としたモティーフである。(木前利秋『メタ構想力』未来社、p311)

同書第二部「マルクスと労働の由来」で霊長類研究の成果を参照していたのも、こうしたメタ構想力の進化的地位を探り、自然史と人類史の分岐点を尋ねる試みだったわけです。
『メタ構想力』を読み終えて不思議に思ったのは、この歴史哲学と、シティズンシップ論との関連性です。というのも、『メタ構想力』をまとめる作業と、小社から出させていただいた二冊に結実したシティズンシップについての共同研究は時期的に重なっているはずだからです。
『変容するシティズンシップ』(2011)と『葛藤するシティズンシップ』(2012)の共編者である亀山俊朗先生や時安邦治先生から、この共同研究はもう四、五年以上も前から取り組んでこられたとうかがっていました。そうすると、木前先生は08年刊行の『メタ構想力』をまとめる作業の直後からすぐにシティズンシップ論に取りかかった、あるいは一部並行して研究を進められていたはずです。
もちろん、思想史に精通された木前先生のことですから話題の引き出しが多かったのだと言ってしまえばそれまでですが、密度の高い思索を繰り広げられてきた木前先生のことですから、歴史哲学とシティズンシップ論との間にやはりなんらかの思考の連絡があってしかるべきだろうと思うのです。そこでもう一度、三冊の本を読みなおしてみると、『変容するシティズンシップ』に寄せられた「シティズンシップの再編と『諸権利をもつ権利』」に一箇所だけ『メタ構想力』への参照を求める注がついていました。
「シティズンシップの再編と『諸権利をもつ権利』」では、参考文献にアーレント全体主義の起原』のドイツ語版(1986)と英語版(1994)が挙げられています。初めは校正しながら、どちらか一つでよいのでは?と思ったものですが、木前先生は英語版刊行の際にアーレントが付け加えた文言を重視していらしたのでした。それは「諸権利をもつ権利」概念の要に据えられた「その行為と意見に基づいて人から判断される関係」についてです。

彼女自身がこの文言を敷衍して論じた様子はないが、『全体主義の起原』の英語版では、この「行為と意見」に少しだけ別の説明が加わっている。人権が「根本から」奪われるとは、「諸権利をもつ権利」が失われるということである。「諸権利をもつ権利」が奪われるとは、「自由にたいする権利the right to freedomを失うのではなく、行為にたいする権利the right to actionを失うことであり、……思考する権利the right to thinkを失うのではなく、意見にたいする権利the right to opinionを失うことである」(Arendt 1994: 296)。(木前利秋『変容するシティズンシップ』白澤社、p166)

それが失われれば「諸権利をもつ権利」が失われるような「行為」とは何か。木前先生は次のように解釈します。

アーレントがここで「行為」と呼ぶものは、のちに『人間の条件』で言われる「活動」より広い意味を持ち、「活動」と「制作」の双方を含む。いやむしろ活動と制作のあるべき関係から構成された営みだといったほうがよい(木前 2008: 258)。その際制作と活動の課題になるのは、「世界」の構成要素となる人工物の構築、とりわけ権利の創出であり、それに伴う新たな法制定である。「諸権利をもつ権利」との関わりで私たちなりに敷衍して言うならば、この権利概念は、単に既存の法によって諸々の権利を享受する権利にとどまるのではなく、新たな法の制定とともに諸々の権利を創出していく権利である。(木前利秋『変容するシティズンシップ』白澤社、p167-p168)

アーレントの「行為」とは「活動と制作のあるべき関係から構成された営み」でそれが「新たな法の制定とともに諸々の権利を創出していく権利」の要にあるということです。ここで『メタ構想力』258頁(木前 2008: 258)の参照が求められています。それはアーレントが『全体主義の起原』で「全体主義的な『法則の必然性』」に対置した「実定法としての『法律の安定性』」について、彼女の『革命について』から立憲行為について述べた箇所を引いて解釈しているところでした。

権力は、道具的な性格をもつ暴力とは違って、「一致して活動する人間の能力」に対応している。人々の共同した活動が権力の源泉である。この権力にもとづいて権威を与えられた者たちが作成、制作したものこそ憲法にほかならない。労働の生産物とは違い、制作された客観的な実在は耐久的で持続的である。必然性と暴力の結託が、〈制作〉と〈労働〉との悪しき性格の結合に対応していたとすれば、法律の安定性と権力との分離は、〈制作〉と〈活動〉との善き分割と併存からなっていた−−アーレントの論理にしたがえば、こう解釈することができる。(木前利秋『メタ構想力』未来社、p258-p256)

ここで話題となっている立憲行為こそ、シティズンシップ論での「新たな法の制定とともに諸々の権利を創出していく権利」に通じるものであることは明らかです。また『葛藤するシティズンシップ』に収められたマルクス論での「実定法の慣習に反する権利」でありながら「法律上の権利となるべきものを先取りしている」貧民の慣習的権利、「すでに存在するシティズンシップの諸権利としてではなく、これから実現すべき諸権利の理念」とも関係するのでしょう。
『メタ構想力』で木前先生はこのあと、アーレントの「〈作る〉営みの見方に厳格さと曖昧さの揺れのあること」を指摘し、ある意味でアーレントを越えて「ポスト全体主義の現在、わたしたちの政治的課題の重点は、制作を活動からいかにして区別するかを問うのみならず、くわえてまた制作の体制そのものをいかに変えるべきかを問うところに転じつつある」(木前2008、p268)と論じます。
木前先生が「制作」〈作ること〉を強調するのは、それが「メタ構想力」というキー概念の源泉であるヴィーコの思想に関連するからでしょう。人が作り出した歴史的世界を認識するのがヴィーコの学問の方法がめざしたところでした。
こうしてみると、『メタ構想力』の歴史哲学からシティズンシップ論への移り行きは、木前先生の学問にとって当然の流れだったのだなと納得します。『メタ構想力』が歴史認識の哲学だとしたら、シティズンシップ論は歴史を作る主体の理論として構想されたのではないでしょうか。そう考えると、幻に終わったシティズンシップ論の続編がかえすがえすも惜しまれます。
編集者として接したささやかな思い出を記すつもりが思わず長くなってしまいました。あらためて木前利秋先生の学問を偲び、生前のご芳情に感謝する次第です。(担当・S)