白澤社ブログ

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「どんくさい」テディ?--トラムの社会的観相学--(表 弘一郎)

新刊『アドルノの社会理論』の著者、表弘一郎さんに、多方面での活躍と難解な哲学で知られる思想家アドルノの横顔を紹介するエッセイを寄稿していただきました。なお、以下の文章の著作権は表弘一郎氏にあります。(白澤社ブログ担当者)

「どんくさい」テディ? --トラムの社会的観相学--(表 弘一郎)

トラム(路面電車)発祥の地ドイツでは、都市交通の重要な部分をトラムが担っており、フランクフルト市もいまでは多数の路線を抱えている(2012年現在で10路線)。最近では超低床車が主流だが、週末や休日になると Ebbelwei Express という市内観光用の古めかしい車両が走る。車内ではフランクフルト名物のエッベルヴァイ(ヘッセン方言でリンゴ酒の意味)が飲める。これがなんだか美味いのかマズイのかわからない酒なのだが、癖になることだけは確かだ。
トラムは、エッベルヴァイ酒場が多数あるマイン川南のザクセンハウゼン地区にももちろん伸びており、19世紀末から人々の大切な足になっていた。この地区のカイザー・ヴィルヘルム・ギムナジウムに通うテディ少年、のちのアドルノ(Theodor W. Adorno, 1903-69)も毎日16番線で通学していた。
 そのトラム車内でのある日の出来事を、彼は40年ほど後にこう回想している。

ある日通学のトラムのなかでクラスメートとたわいもない話をしていたら、私の家と同じ通りの住民のドライブスのじいさんから突然怒鳴りつけられた。『このくそガキ、その標準語やめろや。まともなドイツ語を習わんかい』、というのだった。その後まもなく、ドライブスさんはぐでんぐでんに酔っ払って荷車で家に担ぎ込まれ、しばらくして亡くなったようなのだが、それでもあのときのショックはなかなか消えなかった。生まれてはじめて私はランキューン(ひがみ、怨恨)というのはどういうものかを彼から学んだのだ。(アドルノ(1959)「異国の言葉」216-7頁)。

ここでアドルノは、たとえば rancune (フランス語、もとはラテン語の rancor)のような外来語の使用は第一次世界大戦ナショナリズムに対するささやかな抵抗の拠点だったと述べているのだが、なんだか恵まれたブルジョア坊ちゃんの「上から目線」に感じなくもない(彼の父はかなり裕福なワイン商の同化ユダヤ人で母はコルシカ系フランス人の血を引く元宮廷オペラ歌手)。さらに、いかにも浮気者アドルノらしく、エキゾティックな女性に惹かれるように愛が異国の単語へ駆りたてると言う。こんな不埒なテディ少年は、ドライブスさんに地元の言葉で怒鳴られるだろうとは思う。
しかし、こうした感じを現代日本の通勤電車でも抱く人はいるのではないか。ドライブスさんが抱いたのは、たとえば古くからの大阪弁が横溢する阪堺電車(東京で言えば都電荒川線か)の車内で、なぜか標準語で喋る進学校の生徒たちに向けられるあの違和感、「いつも同じもの(das Immergleiche)」を超え出ようとする動きに対する警戒心に近いのかもしれない(もっとも阪堺線の場合は大阪弁の豊饒がはるかに勝っているし、晩年のアドルノヘッセン方言を自在に操ってみせたと言うが)。
トラムでの社会観察(彼の用語では「社会的観相学」)はどうやらアドルノのお気に入りだったようで、さらに約10年後の、笑いと社会的コンフリクトをテーマに行なわれたゼミの記録でもこんなことを書いている。

トラムの自動ドアに挟まれる老人に、『あいつ、役立たずのドアにびびっとる!』と締めくくりのコメントをしてみんなでニヤニヤ笑うふるまいのなかには、野蛮さが社会的に儀式化されている。こうした笑いを合理化する当のものは、摩擦のない機能作用の虚構の必要性であり、人間のことをまったく思いやることのできない健全な人間理性である。思いやりがまだ存在することだけでも、〔社会という〕機構にとっては潜在的に邪魔者のように作用するのだ。この図式で言えば、特殊なものがその論理形式にしたがい、いわば普遍的なものにとっての闖入者だと有罪判決を下されるところで、笑いは社会現象として生まれるのである。(アドルノ/イェーリッシュ(1968)「今日の社会的コンフリクトについての注釈」192頁)

アドルノが挟まれた当の「どんくさい」人だったのか、それともこうした排除的な笑いの観察者だったのかは定かではない(まず後者だとは思うが、トラムのドアはボタンを押して開閉するタイプで、故障していることがあるのだ)。ただ、どちらかと言えば挟まれがちな人や、挟まれたくないと思っている人は思わず首肯する分析ではないだろうか。少なくとも私はそうだ。自動ドアに挟まれてしまうそのこと自体はたしかにその人が慣れていないからなのかもしれない。しかし、その不慣れさに対して起こる攻撃的な笑いには、慣れやスムースさを強要する社会のありようと、慣れて当然と思っている人間の傲慢が現れているのである。なんだかキビシイ話に聞こえるかもしれないが、この考察はあんがい最近のベビーカー論争にもつながっているのではないか、などと思う。
彼がもう少し長く生きていれば、今度は「儀礼的無関心」(ゴフマン)のようなことを言いだしたかもしれないと妄想は膨らむのだが、残念ながらこの1年後には盛りあがる学生運動のさなかに亡くなっている。
こんなアドルノが「社会」をどういった角度から見ていたのか、この排除の笑いにどのような反撃を試みたのか、ご興味を持たれた方はぜひ拙著をご覧ください(そちらの方では少しマジメな話をしております)。
[「異国の言葉」からの引用文は、三光長治他訳『文学ノート1』(みすず書房)などを参照しました。]

著者プロフィール

表 弘一郎(おもて こういちろう)
1970年大阪府生まれ。2003年大阪市立大学大学院経済学研究科後期博士課程修了、博士(経済学)。現在、同志社大学嘱託講師、中部大学・大阪経済法科大学非常勤講師。専門は社会思想史、社会哲学、偶然性とリスクの社会理論。
著書に『アドルノの社会理論』(白澤社)、『〈共生〉の哲学──リスクによる排除と安心の罠を超えて』(耕文社)、共著に『葛藤するシティズンシップ──権利と政治』(木前利秋・亀山俊朗・時安邦治編、白澤社)、『古典から読み解く社会思想史』(中村健吾編、ミネルヴァ書房)ほか。論文に「偶然性とリスクのあいだ─社会哲学のある課題─」(中部大学人文学部研究論集第29号)、ほか。

アドルノ『文学ノート1』の紹介ページ

いかがだったでしょうか。
なお、表さんのエッセイのなかでふれられているアドルノ『文学ノート1』については、版元のみすず書房さんのサイトに紹介がありますのでご案内しておきます。↓
http://www.msz.co.jp/book/detail/07470.html