白澤社ブログ

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他人からどう見られるか気になりますか?──『人生論ノート』の言葉から3

自分を実力以上に見せようとすることはありませんか? 
人から軽んじられたくないし、ましてやバカにされたくはありませんから、ついつい、できる風を装ってみたり、知ったかぶりをしてしまったり。逆に、目の前の困難を乗りきるために、あえて虚勢をはったり、はったりを利かせることだってもちろんあるでしょう。
三木清『人生論ノート』に「虚栄について」という章があります。三木さんは、人が虚栄的であることは、当たり前だと言っています。

「虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。」

そうか、虚栄心を持つのは人間として当たり前なんだと、ホッとしませんか。で、なぜ三木さんはこう言い切るのか。
なぜなら、「人間の生活はフィクショナルなもの」「人生はフィクション(小説)」だから。
三木清「人生論ノート」を読む』の著者、岸見一郎さんは、次のように読み解いています。

 構想力、もしくは想像力が人間の生を形作っていくというのが、三木の基本的な考え方ですから、その視点から見れば「人生がフィクションである」ということは、人間が自らの人生を形作っていくということであって、むしろポジティブな意味を持っているわけです。


逆に、作り上げる前の自分とは、単なる可能性、つまり潜在的な存在だというわけです。

「人生はフィクショナルなものとして元来ただ可能的なものである。」

やればできる人でも、何もしなければ可能性にとどまることになります。“さんねんねたろう”みたいな人、いま風に言えば「やればできる子」ですね〜。
岸見さんは、三木さんの言葉を受けて次のように言っています。

「実体のないものが如何にして実在的であり得るか」が問題だというのは、私たちが自分の人生をいかにして手ごたえのある、内実のあるものにしていくかが課題だという意味に受け取ることもできます。

人がある虚栄を持ったとして、それがいつまでもその人にとって虚栄であるのであれば、進歩がないということになります。そうならないために、人は向上心をもってさまざまな努力をする。つまり虚構に実体を近づけるということです。「虚栄」とは人生にとって意外に重要なものなのですね。
「虚栄」のさらなる展開は、『三木清「人生論ノート」を読む』をぜひご覧ください。