このたび白澤社では、菱木政晴著『極楽の人数──高木顕明『余が社会主義』を読む』を刊行しました。
[書 名]極楽の人数
[副書名]高木顕明『余が社会主義』を読む
[著者名]菱木政晴(ひしき まさはる)
[体 裁]四六判並製、176頁
[定 価]1,800円+税
[ISBN] 978-4-7684-7944-5
発行:白澤社
発売:現代書館
1月末には、全国主要書店に配本される予定です。
「ごくらくのにんじゅ」と読みます
本書のタイトル『極楽の人数』は「ごくらくのにんじゅ」と読みます。
にんずう、ではなくて、にんじゅ、です。
仏教界では伝統的にそう読むのだそうですが、そういえば、「数珠」と書いて「じゅず」と読みますね。
「数」の字を「しゅ」または「じゅ」と読むのは呉音なのだそうです。
本書の内容
「極楽の人数」とは、平和で平等な社会(=極楽)のためにはたらくメンバーシップ(=人数)のことである。
「諸君願くは我等と共ニ此の南無阿弥陀佛を唱へて生存競争の念を離れ共同生活の為めに奮励せよ。何となれば此の南無阿弥陀佛を唱ふる人は極楽の人数なればなり。」(高木顕明『余が社会主義』より)
明治の思想弾圧事件「大逆事件」に連座し、無実の罪に問われて死刑判決を受けた真宗僧侶・高木顕明。彼は、恩赦で無期刑となったが、後に秋田監獄で自死した。
反戦・反差別の実践で近年再評価されつつある顕明の尋問調書に『余が社会主義』と題された短い文書が残されていた。念仏こそが社会主義だと説くこの文書には、従来の念仏観、社会主義観とは異なるオリジナルな思想が表明されていた。
真宗僧侶で宗教学者の著者はこの文書を親鸞『教行信証』と対比させながら読み解き、顕明による親鸞理解のラディカルさを明らかにする。
顕明の真宗信仰とは、「社会批判としての信心」と呼ぶべきものだったと思われる。…すくなくとも私は、これ以上適切で簡明な親鸞思想の解釈を知らない。(本書「序」より)