白澤社ブログ

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西日本新聞で『歎異抄の近代』紹介

10月19日付西日本新聞の書評面で、子安宣邦著『歎異抄の近代』が紹介されました。
一昨日、このブログで、京都新聞の書評欄に芹沢俊介氏による書評が掲載されたことをお知らせしましたが、九州のブロック紙西日本新聞でも本書『歎異抄の近代』がとりあげられました。
西日本新聞での評者は批評家の若松英輔さん。
若松英輔さんのホームページはこちら→http://www.yomutokaku.jp/
若松さんは、「本書における『歎異抄』は、七百年前に著されたとされる書物の名前であるとともに、近代日本の黎明期に起こった一つの「出来事」でもある」として、この「出来事」への著者・子安宣邦氏の関わり方にスポットを当てています。

筆者はこの一冊の書物がどのように「読まれて」きたかを「主体的」に辿ってゆく。先人の道程を客観的に論じるのではない。むしろ、その歴史のうごめきの中に自分もまた一個の「読む」主体となって参与する。

その例として若松さんは本書の中から暁烏敏論を取り出しています。

懊悩する自身の内面を赤裸々に語る暁烏の「読み」にふれ、筆者は、幾度となく「違う」と書く。これは単なる拒絶の表現ではない。筆者は暁烏の個的な経験の絶対性を否定していない。だが、清沢が「私」から「公」の次元に引き出した『歎異抄』を、暁烏がふたたび、「私」の世界に否を突きつける。

校正をしながら感じたのですが、確かにこれも本書の特徴の一つです。
若松さんも挙げていらっしゃる通り、本書には暁烏の他にも「文学者では倉田百三丹羽文雄野間宏、思想家では鈴木大拙吉本隆明など」の「歎異抄」論・親鸞論が取り上げられていますが、著者はそうした人たちがあたかも眼前にいるのではないかと思わせるような筆致で、その人たち一人一人に、なぜ『歎異抄』を読むのか、どうしてこう読んだのかと問い、先行する論者たちと激論を交わしているかのような印象を持ちました。
若松さんが「歴史のうごめきの中に自分もまた一個の「読む」主体となって参与する」というのは、こういうことなのだろうなと思います。
もちろん「自分もまた一個の「読む」主体となって参与する」とは、否を言うばかりではありません。若松さんは「一方、哲学者三木清を論じた章では、筆者の確かな共感が静かに語られる」と指摘して、次のように結んでいます。

解決ではなく、問題を提起する書である。筆者は読者もまた、この「出来事」に連なることを強く促している。

若松さん、本書の問題提起という側面に光を当ててくださった書評、ありがとうございました。