白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

伊藤比呂美訳著『たどたどしく声に出して読む歎異抄』

伊藤比呂美訳著『たどたどしく声に出して読む歎異抄』(ぷねうま舎)を読みました。
版元ぷねうま舎さんの紹介サイトはこちら↓
http://www.pneumasha.com/
http://www.pneumasha.com/2012/02/22/たどたどしく声に出して読む歎異抄/

歎異抄正信念仏偈・和讃・書簡の現代日本語訳。
現代を生きる詩人が、自らの語感と文体のすべてをかけて翻訳に挑戦しました。
口語体の念仏や唱名が、風にまじる口笛のように、心に沁みとおります。

ISBN978-4-906791-00-2 C0095 \1600E
四六判・160頁 定価1680円(税込)

詩人が紡ぐ肉感あふれる言葉

いきなり引用します。

死ぬことならぼんやり考えているけど、死にたくはない。こないだも、その前も、その前の前も、飛行機に乗るたびに、今度こそ落ちたって思っていたけど、無事に飛んで無事に着いた。いざ落ちることになったら、怖くて怖くてたまらないだろう。てなことを親鸞がいってたっけと考えた。
親鸞がいったのは、たしかこんなふうだ。
親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこゝろにてありけり」
それからこうなる。
「浄土へいそぎまいりたきこゝろのなくて、いさゝか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」
これを自分のことばに置き換えてみたいと思った。

ごくごく一般的には、親鸞といえば『歎異抄』、『歎異抄』といえば「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が最もよく知られた文でしょう。この一文だけを取り出して、だから悪いことをしてもいいのだ、と理解する人は、今も昔も少なからずいるようです。それも一般人ならともかく、布教して歩いていた僧にまでいたそうです。そればかりではなく、親鸞聖人が言っていないことを、あたかも言っていたかのように流布する僧もいたようで、その理解は違うではないかと嘆いた親鸞の弟子・唯円が、わたしは親鸞様からこう聞いているのですよと書き記したのが『歎異抄』。

ずっと考えておりました。
親鸞聖人の生きておいでだった頃と今とは、ずいぶんちがってしまいました。亡き師のおしえてくださったこととはちがうことが、おしえとして、ひろまっていることをなげいております。

本書は、その『歎異抄』を僧でもなく門徒でもない、しかし言葉を紡ぐことにおいてプロフェッショナルである詩人・伊藤比呂美が読み説いてみた、というもの。「阿弥陀仏」は「むげんのひかりさま」。
よって、この本には念仏とは何かとか、阿弥陀仏の誓いとは何かとか、信心とは何かとか、などなどの浄土真宗の最重要課題の理解や歴史的な疑問に関する解説がなされているわけではありません(そのあたりのことは小社刊、菱木政晴著『ただ念仏して』、『極楽の人数』をご一読ください)。
詩人は言う。
訳すとは「異質な言葉を身の内に取り込み、それと同化しながらも差異を発見し、自分の声に移し替えるという作業である。この頃はまるで業というもののように、しないではいられない。業のようなものなので、内容なんか吟味しないでよい。興味があるのはことばだけ」。
歎異抄』が詩人の身の内に取り込まれて、どのように紡ぎ出されたのかは、読んでのお楽しみ。
訳文の間に差し挟まれた、夫と子どもたちがいるアメリカと老親がいる日本を、何度も何度も難行苦行よろしく往復する詩人の「旅」日記が活きています。