白澤社ブログ

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京都新聞で子安宣邦『歎異抄の近代』紹介

10月19日付京都新聞の書評面で、子安宣邦著『歎異抄の近代』が紹介されました。
評者は評論家の芹沢俊介さん。
多くのご著書のなかには『「イエスの方舟」論』や『「オウム現象」の解読』(いずれも筑摩書房)などの宗教論や、『宿業の思想を超えて 吉本隆明親鸞』(批評社)のほか、上田紀行氏、高史明氏との共著で『親鸞と暗闇をやぶる力 宗教という生きる知恵』(講談社+α新書)や『存在の大地』(真宗大谷派宗務所出版部)などの親鸞論もあります。
芹沢さんの書評から書き出しの部分を引用します。

思想史家の著者は、近代に始まり今に至る先人の信仰をめぐる「歎異抄」体験を順次俎上に載せる。石和鷹を枕に、真宗の改革を志した清沢満之暁烏敏倉田百三丹羽文雄鈴木大拙服部之総三木清野間宏吉本隆明滝沢克己。ところが、著者自らの「歎異抄」体験が語りだされることはない。その点で、この本は私の手元にある「歎異抄」本と比べ、いささか特異である。

ここで芹沢さんは服部之総の名を挙げています。
本書『歎異抄の近代』は、芹沢さんの挙げている通り、序章で『地獄は一定すみかぞかし』の石和鷹、そのあとの各章で、清沢満之暁烏敏倉田百三丹羽文雄鈴木大拙三木清野間宏吉本隆明滝沢克己のそれぞれの「歎異抄」論、親鸞論を取り上げていますが、服部之総については単独で取り上げた章はありません。
服部之総は、本書『歎異抄の近代』では『親鸞ノート』(国土社、のちに福村出版)の著者として、鈴木大拙『日本的霊性』を論じた第9章と、野間宏『わが塔はそこに立つ』を論じた第11章、第12章に登場する歴史学者です。
この服部之総という人物こそ、『歎異抄の近代』後半の隠れたキーパーソンなのではないかなと校正をしながら思っていたものですから、芹沢さんの書評でさりげなくこの人物の名が挙げられていることに感心した次第です。
さて、芹沢さんの書評の後半は、著者が「清沢、三木、滝沢への深い共感を書き記す」一方で「他の先人たちの言説には疑念や不審をあからさまにしている。とりわけ吉本の著書「最後の親鸞」に向けた屈折した感情は興味深い」として、後半は吉本隆明『最後の親鸞』についての本書『歎異抄の近代』での吉本批判に対して反論が述べられています。
おざなりな紹介ではなく、評者が関心を持ったことについて熱く語る書評というのは最近少なくなりました。
芹沢さん、本気の書評、ありがとうございました。