白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

『安政コロリ流行記』散歩、その四 妻恋稲荷と野狐

 安政五年(1857)のコレラ禍の当時、仮名垣魯文が住んでいたのは湯島妻恋町。町名の由来は同地にある妻恋稲荷(文京区湯島3丁目)によるものだとか。

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 今はマンションやビルに囲まれた一画に妻恋神社(妻恋稲荷)があります。この界隈がかつての湯島妻恋町で、若き日の仮名垣魯文が恋女房よしと暮らしたところです(町名に引かれて勝手に想像しました)。

 魯文『安政箇労痢流行記』には、湯島で起きた事件も記されています。

一つは、湯島三組町の魚屋のおかみさんが、急に発症し店先で倒れて亡くなってしまった事件(『安政コロリ流行記』翻刻37頁、訳文89頁)。湯島三組町は、現在の湯島3丁目のあたりで、坂道や交差点の標識にその名をとどめています。

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 もう一つは、湯島のあたりの貧しい夫婦の哀話で、病の床に臥せっている夫をケアしていた妻がコロリで急死し、知人たちがその葬儀の準備をしたところ、亡妻の幽霊が火葬場の職員の枕元にあらわれ、夫の病のため生活が苦しく、このうえ自分の葬儀のために出費がかさんでは残された夫の暮らしが心配だと訴えたという話。同情した火葬場の職員は香典を添えて火葬費用を返したとのことです(『安政コロリ流行記』翻刻52頁、訳文104頁)。

 『安政箇労痢流行記』の記事は、魯文の知人から聞いた話も多く取り入れられていますが、この二つについては、場所が湯島ということから、あるいは魯文自身が直に耳にした話かもしれません。

 妻恋稲荷(妻恋神社)に行ってみました。

 現在、妻恋坂と呼ばれている大通りの一本北側の細い坂道が旧妻恋坂で、この坂を上りきったところに妻恋神社があります。

 妻恋神社境内にある文京区教育委員会による案内板を見て驚きました。

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「江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近辺のひとびとの求めに応じて各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷をおこなったりした。」

「「野狐退散」の祈祷をおこなったりした。」!

野狐! 野狐と言えば、佃島の漁師にとり憑いて、退治された後は尾崎大明神として祀られたあの憑き物です。

 そして、数奇屋町(千代田区八重洲一丁目)の煙管屋が狐にとりつかれた時も疑いをかけられたのも野狐でした。

 妻恋稲荷が「野狐退散」の祈祷に力を入れていたとすれば、佃島の憑依事件も、数奇屋町の憑依事件も、そのニュースはこの妻恋稲荷に集まったのではないでしょうか?

 そうだとしたら、魯文は居ながらにして各地の憑依事件発生を知りえたのでは?

 想像(妄想)がふくらんでやみませんでした。

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