白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

三木清『人生論ノート』の謎

好評発売中の岸見一郎著『三木清『人生論ノート』を読む』の編集作業については、昨年のこのブログでもご紹介しました。
http://d.hatena.ne.jp/hakutakusha/20160705/1467702543
岸見さんと編集担当とで、学生時代の読書会のように、三木の文章を一段落ずつ読み上げては、
「これはいったいどういう意味でしょうか?」
「どういう意図があって言っているんですかね?」
と、頭をひねりながら『人生論ノート』の謎を解いていったのですが、いくら考えてもわからなかった文章もあります。
「虚栄について」の次の断章です。

 紙幣はフィクショナルなものである。しかしまた金貨もフィクショナルなものである。けれども紙幣と金貨との間には差別が考えられる。世の中には不換紙幣というものもあるのである。すべてが虚栄である人生において智慧と呼ばれるものは金貨と紙幣とを、特に不換紙幣とを区別する判断力である。尤も金貨もそれ自身フィクショナルなものではない。(新潮文庫、46頁)

「紙幣はフィクショナルなものである」というのはわかります。紙そのものに価値があるのではなく、日本銀行券として印刷されたものを例えば千円とか一万円とかの価値があることにしようという約束のもとで、価値がもたされているのですから。
そこで、金貨と兌換紙幣と不換紙幣との違いを見抜く判断力が人生の知恵というものだ、と三木は言っている、それもわかります。
しかし、最後の一文、「尤も金貨もそれ自身フィクショナルなものではない。」とはいったいどういうことか?これがわからない。
紙幣がフィクショナルなものなら、それととりかえられる金貨の価値も、その原料である金という鉱物の価値も、やはりフィクショナルなものだ、というのならわかります。
ところが、「金貨もそれ自身フィクショナルなものではない」というのですから、そうではないことになってしまう。三木は金貨の価値を特別なものとしていたのでしょうか?
もし、紙幣の価値はフィクショナルなものだとしても金貨の価値はそうではないと言いたいのなら、「金貨それ自身はフィクショナルなものではない」とするべきでしょう。
それにしても、「尤も金貨も」と書き出しているのですから、前の文とのつながりがどうも変な感じがします。
結局、この文の意味はよくわからない。
ただし、ありえそうなこととして、一つの想像はできます。
証拠はないので断言はできませんが、考えられることとして、これは脱字の見逃しではないだろうかと想像されるのです。
つまり、元原稿には「尤も金貨もそれ自身フィクショナルなものではないか」とあったのに、最後の「か」の字が雑誌掲載時に脱落して、これに著者も編集者も気づかないまま、単行本刊行時にも見過ごされてしまったのではないか。

ふつう、初版にありがちな誤字脱字は重版時に直しますが、「偽善について」「娯楽について」「希望について」の三篇を追加した現在のかたちの『人生論ノート』が出版されたのは、戦後、三木清が亡くなったあとのことでした。
ですから、気がついた編集者がいたとしても、すでに著者の真意を確認することはできずに、そのまま刊行されて現在にいたった、ということはありそうです。
以上はまったくの憶測で、確かなことは三木の自筆原稿が出てくればわかるはずなのですが、『人生論ノート』の肉筆原稿はどうなってしまったのでしょうか。
謎は深まるばかりです。
ちなみに「虚栄について」の章の解釈を掲載した、岸見一郎著『三木清『人生論ノート』を読む』は現在も新刊書店で流通しております。
新刊書店での定価は、本体1800円+税です。
読者の皆様にはお手数をおかけいたしますが、最寄りの書店さんを通してご注文いただければ幸いです。
同著者による続編『希望について――続・三木清『人生論ノート』を読む』ともどもご愛読いただきますようよろしくお願いいたします。