白澤社ブログ

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哲学者と公娼制

西日本新聞で『三木清『人生論ノート』を読む』が取り上げられました


2016/08/30付 西日本新聞夕刊の新刊紹介欄で、岸見一郎『三木清『人生論ノート』を読む』が取り上げられました。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_new/article/270923

 1941年の刊行以来、今も読み継がれている哲学者・三木清の著書『人生論ノート』。「死について」〈前半〉、「幸福について」「成功について」など、38年から40年までに執筆された章の中から、人間学・人間関係論として興味深い断章を読み解く。

西日本新聞さん、ありがとうございました。

公娼制と哲学者

さて、三木清のコラム集『現代の記録』に「世界の鏡」と題した短文があります(1937年3月)。
このコラムで三木は、日本の遊郭・吉原を外国に紹介する映画に、日本側が抗議していることをとりあげています。

 西洋人が日本を訪ねて来ると、歌舞伎や能へ案内すると共に吉原へ案内する。それが殆ど公式になっているとすれば、映画「吉原」に抗議するのは矛盾でないかとも云えるであろう。オリンピック東京大会を控えて改善すべきことはここにもある。(『三木清全集第十六巻』岩波書店、引用にあたり仮名遣いを改めた。以下同)

現代でも、米軍に日本の風俗産業の利用を奨めた政治家がいましたが、こうした感覚は戦前から変わっていないのかもしれませんね。
ちなみに三木清が言っている「オリンピック東京大会」とは、1940年に開催されるはずだった、幻の東京オリンピックのことです。
国際社会から多くの客を日本に招こうとしているのに、こんなことでよいのかと三木は嘆いているわけです。
さらに三木は「日本主義者のうちには吉原讚美論者がなかなか多いこと」に読者の注意を促します。

 例えばこの方面で有名な紀平正美博士は、日本精神の本質は「つとめ」にあるとしているが、その際博士は、私娼は西洋模倣の個人主義であり、公娼は日本固有の家族主義であると見ると共に、「つとめ」の論理の立場から郭を支持している。博士によると、公娼は単なる犠牲として社会の暗黒面を現わすのでなく、郭内における「つとめの身」として一定の積極性を現わすものである。「今日此の精神によって更に改造せらるるならば、社会制度としてこれほどよきものはないであろう」と博士は云う。「つとめ」のこの積極性こそ、実にまたあの爆弾三勇士の精神であると博士は附け加えて論じている。これが他ならぬ文部省の国民精神文化研究所の所員として思想善導の任に当たっている紀平博士の「哲学的」見解なのである。

ここで三木清がやり玉に挙げている紀平正美博士とは、学習院大学教授などを歴任した戦前の代表的なヘーゲル学者ですが、この当時は日本主義の旗振り役をつとめていた人物です。それにしても、「私娼は西洋模倣の個人主義」だからけしからんが、「公娼は日本固有の家族主義」であるからよろしい、「郭内における「つとめの身」として一定の積極性」がある、とは、なんとも呆れた話です。三木は「映画「吉原」に抗議する官憲はかような「侮日的」思想の国内における宣伝に対して矛盾を感じないのであろうか」と皮肉っています。
公娼制を「日本固有の家族主義」とし、「つとめ」すなわち自己犠牲の精神によって改造するなら「社会制度としてこれほどよきものはないであろう」というのが日本主義であるなら、なるほど三木のいうとおり、これほどの「侮日的」思想はないでしょう。
あるいは見方を変えるなら、国家の文化政策の宣伝マンをつとめる人物が、自己矛盾にも気づかずに「社会制度としてこれほどよきものはないであろう」と言ってしまうくらい、公娼制大日本帝国と深く結びついていたとも言えそうです。
最後に宣伝ですが、公娼制をめぐる政治的攻防を追った、関口すみ子『近代日本公娼制の政治過程 ―「新しい男」をめぐる攻防・佐々城豊寿・岸田俊子山川菊栄』が近日刊行予定です。ご期待ください。