白澤社ブログ

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泣ける話は好きですか?──『人生論ノート』の言葉から5

転んだだけで泣いていた子どもの頃と違って、大人になると泣くことが少なくなりますね。
でも、○回泣けるなどと銘打った本や映画の宣伝を目にしますから、泣きたいという衝動は人にとって心惹かれるものなのでしょう。
三木清『人生論ノート』には、「泣きについて」や「悲しみについて」という章はありませんし、「夕鶴」のおつうはかわいそうだと泣けるような話は、残念ながら書かれていません。じゃあ、「泣ける話」というのはなんだ、と首をかしげた方、今しばらく少しおつきあいください。
さて、『人生論ノート』最初の章は、「死について」です。その中程に次の文章があります。

「私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。もし私が彼等と再会することができる──これは私の最大の希望である──とすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。」

三木さんは、「死について」を書いた頃、立て続けに近親者を亡くしています。とりわけ、幼い娘を残して急病で亡くなった、妻の喜美子さんへの思いは深かったのでしょう。
亡き妻の一周忌に、三木さんは、幼い愛娘にあてた『幼き者の為に』という文章を書いています。そしてその最後は次のように締めくくられていました。

「私としては心残りも多いが、特に彼女の存命中に彼女に対して誇り得るような仕事の出来なかったことは遺憾である。私が何か立派な著述をすることを願って多くのものをそのために犧牲にして顧みなかった彼女のために、私は今後私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って、彼女の後を追うことにしたいと思う。」

「能う限りの仕事」をして「待たせたね」と言って彼女の後を追うことにしたい、とは、グッとくるではありませんか。
しかし、現実には三木がその才能を十分に発揮し仕事を完結させることは、歴史が許しませんでした。
岸見一郎さんは『三木清「人生論ノート」を読む』の「終章」で、三木の最期を次のように書いています。

 逮捕された三木は、日本の敗戦後も釈放されず、不衛生な拘置所内で感染した皮膚病に苦しみながら、一九四五年九月二十七日、体調を崩して急性腎炎を発症し、四十八歳で獄死しました。
 三木は、あらかじめ考えられなかった死こそ最上の死だと書いていました。拘置所での孤独な死は、三木にとってあらかじめ考えられたものだったのかどうか。死の立場からみて、はじめて生を全体として把握できるのだとしたら、三木清という稀有の思想家の人生とはどのようなものだったのか。
三木の言葉を繰り返しましょう。
「問題は死の見方に関わっている」。


歴史にもしもはないと言いますが、もしも、敗戦後直ちに三木を含む拘留者たちが釈放されていたら、三木は戦後「立派な著述をすることを願って」いた亡き妻への約束を果たすことができたでしょう。泣けてきます。
あまりに惜しい人を、あまりにも理不尽に失ってしまいました。
「問題は死の見方に関わっている」という三木の言葉は、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領の有名な演説のなかの言葉、「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」を思い出させます。
希有の哲学者だった三木清の最期は、いまの私たちに何を、『人生論ノート』ほかの残された著作とともに伝えているのでしょうか。
詳しくは、『三木清「人生論ノート」を読む』をぜひお読みください。(了)