白澤社ブログ

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どんなときに幸福だと感じますか?──『人生論ノート』の言葉から2

皆さんはどんなときに幸福だと感じますか?
私は、暑〜い夏になると無性にかき氷が食たくなるのですが、果物てんこ盛りのかき氷を食べたとき、幸せだな〜とつぶやいている自分がいます。でも、こんな幸せでいいのでしょうか。
三木清『人生論ノート』「幸福について」には、次のように書かれています。

幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている。

とすると、どうも私のかき氷の幸せは、五臓六腑が冷やされる快感なのであって、三木さんの言う幸福ではありませんね。また私の凡人ぶりを発揮してしまったようです(汗)。
三木さんは、幸福は感性的ではなく「主知主義」と結びつくのだと言います。つまり知性的なのだと。そして次のようにも言っています。

幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。

今でこそ、自らが幸福であること、幸福になろうとすることは、あたりまえのように肯定されますが、三木さんがこのように言った時代は、お国のために命を献げてなんぼの時代でありました。そのなかで、三木さんはあえてこのように書き、そして次の言葉を続けます。

もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことをなし得るであろうか。

この言葉を受けて、『老いた親を愛せますか?』(幻冬舎)という本も書いておられる岸見一郎さんは、親の介護の例を挙げておられます(『三木清「人生論ノート」を読む』より)。

親が子どもの幸福を願って育てることと、子どもが老いた親をいたわることとは、まったく別のことです。この二つは交換したり、補償したりできるようなものではありません。
親が子どもの幸福を願う愛は親にとっての幸福です。もしその願いに答えようとするなら、子ども自身が幸福になることが最大の親孝行です。


親が幸福であることと、子が親を幸福にすることは、受けた恩を返す/返さねばならないという単純なことではないようです。老親の介護が、誰かの献身や自己犠牲に頼り過ぎていて、その人自身の生活が成り立たなくなるとしたら……。
岸見先生が言われるように、介護の問題を考えるとき、この三木さんの言葉を思い起こす必要がありそうです。
さて、幸福とは何か。三木さんは、「幸福は人格である」と断言しています。人格だからこそ、幸福は徳であり困難に立ち向かう力にもなり得るのだと。

この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。

なるほど〜。幸福という力を得れば百人力。
でもそこに至るには、まだまだ人生修行が必要なようです。