岸見一郎さんと小社の編集作業はさながら読書会のようになりました。
学生時代にかえって『人生論ノート』を一段落ずつ読んでは、この文章の意図はなにか?文脈は?背景は?と議論し、三木の文章に感心したり閉口したりしながら、たいへん楽しい時間を過ごしました。
感心したのは、三木の西欧思想への精通ぶりです。ギリシア・ローマの古典から、当時の最先端の思想まで、実に幅広く取り上げて、自由自在に引用・参照しています。
閉口したのは、その出典を書いていないこと。
たとえば、「死について」の次の文章をご覧ください。新潮文庫(百七刷)で9頁です。
ゲーテが定義したように、浪漫主義といふうのは一切の病的なもののことであり、古典主義というのは一切の健康なもののことであるとすれば、死の恐怖は浪漫的であり、死の平和は古典的であるということもできるであろう。死の平和が感じられるに至って初めて生のリアリズムに達するともいわれるであろう。
「ゲーテが定義したように」とありますが、ゲーテはどこで書いているのか、せめて本の題名だけでも書いておいてくれたら…。ぼやきながらも調べました。
三木がゲーテについて書いた他の文章も参考にしながら、おそらくこれだろうと見当をつけたのは、エッカーマン『ゲーテとの対話』、でも岩波文庫で三分冊です。片っ端から頁をめくり、おそらくこれだろうというところを見つけました。
「私は新しい表現を思いついたのだが、」とゲーテはいった、「両者の関係を表わすものとしては悪くはあるまい。私は健全なものをクラシック、病的なものをロマンティックと呼びたい。そうすると、ニベルンゲンもホメロスもクラシックということになる。なぜなら、二つとも健康で力強いからだ。近代のたいていのものがロマンティクであるというのは、それが新しいからではなく、弱々しくて病的で虚弱だからだ。古代のものがクラシックであるのは、それが古いからではなく、力強く、新鮮で、明るく、健康だからだよ。このような性質をもとにして、古典的なものと浪漫的なものとを区別すれば、すぐその実相が明らかにできるだろう。」(エッカーマン『ゲーテとの対話(中)』岩波文庫、85頁より)
涙ぐましい努力の結果見つけたのですが、紙幅の都合であえなくカット。
せっかくですので、ここに掲載しておきます。