白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

シティズンシップと三木清

参院選の投票日が近づいて街がにぎやかですね。
ましてや今回の選挙は、18歳19歳の青年層がはじめて投票に参加するとあって、その動向が注目され、小社刊『シティズンシップの教育思想』の著者・小玉重夫さんも「主権者教育の第一人者」として新聞にコメントを寄せているのを見かけます。

一般に我が国において最も欠けているのは政治的教養であると云い得るであろう。

これは、小玉さんのコメントからではありません。
1937年四月に『日本評論』に掲載された、三木清の「知識階級と政治」題した時事評論の書き出しの文章です。
この文章は次のように続きます。

知識人にしても、政治的教養もしくは政治的知性においては、何等知識人らしくない者が少なくない。かような事実の原因が我が国においては自由主義が十分に発達するに至らなかった、従ってまた政治教育の伝統が乏しいことに存するのは云うまでもないであろう。この頃官僚政治に対して政治の民主性とか政治の大衆性とかいうことが云われているが、それは固より民衆或いは大衆が政治的に啓蒙されることによって実現され得るものである。政治と云えば、治める側の者にのみ関係のあることであって、治められる側の者には関係のないことであるといった考え方が今なお我々のうちに知らず識らず働いている。かような考え方を覆すことが政治的教養の第一歩である。
(『三木清全集第十五巻』岩波書店、118頁。引用にあたり仮名遣いをあらためた)

いうまでもなく政治的教養とは単なる政治についての知識のことではありません。小玉重夫さん流に言えばシティズンシップであり、それを三木は別の文章で「愛市心」という言葉で呼んでいます。
「故郷なき市民」(『三木清全集第十六巻』岩波書店所収)は、東京市議会(現在の都議会)の議員の質が低下したという話からはじまります。議員の質が低下したのは、そういう人を議員にえらんでしまう側にも原因があるのではないか。

 知的に啓蒙された人間、政治的な感心を有する人間が最も多い筈の東京の如きにおいて、その市民の選出する議員の質が最も屡々問題になるということは、ちょっと解し難いことのようである。それには種々の原因があろうが、中にも、市民に愛市心が乏しく、愛市心が乏しいことは市民が自分の住む都市を故郷として感じないのに基くということが、その原因の一つとして挙げられている。市民の多数は地方から移って来た者であって、その住居も常なく、東京に対し故郷の愛を抱いていないと云われるのである。(『三木清全集第十六巻』岩波書店、173-174頁)

しかし、三木は「故郷を持たぬということは近代的市民に本質的な意識に基いている」のだから、愛市心というものは故郷に対する素朴な感情、郷土愛とは違うものだと議論します。

 従って近代的市民の愛市心は故郷に対する愛の如きものとは異る性質のものでなければならぬ。それ故にまたその選出する市会議員の質が良くないということは、都市生活者がこのような新しい社会意識を有せず、却って封建的なものを多く残存せしめているのを現わすことになるのである。(『三木清全集第十六巻』、174頁)

三木は「真の愛市心の基礎となるやうな新しい社会意識が作られるためには、公園、クラブ、会館、運動場、図書館、消費組合等々の公共設備の発達が緊要なことであろう」と述べていますが、公園もサークルも公民館も運動場も図書館も消費者組合もある現在、なお議員の質が問題にされ続けているとは、泉下の三木も予想できなかったのかもしれません。
ちなみに、この文章の最後で三木は、「愛市心がもし「故郷」に対する愛の如きものであるとすれば、それは局限された、地方的利害を中心としたものとなる」のだから、郷土愛的意識を国政に持ち込むべきではないとも示唆しているので、三木のいう愛市心がパトリオティズムともナショナリズムとも違うものであることは明らかです。
現代の言葉でいえば、やはりシティズンシップでしょうか。