白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

プラトン最後の旅7―光瀬龍『百億の昼と千億の夜』より

「沈黙の夕べ、とは?」
「部落の古いしきたりです。祖先を想い出す夕べ、とも申しましょうか」
「祖先を想い出す、ふうむ。それはよいことだ。とくにこの部落ではそうであろう。祖先からのいい伝えにはしばしば真理がかくされてあるもの。沈黙の夕べとはまことにふさわしい」
 砂漠はいよいよ銀色に光輝を放ち、二人は月の光に重さを感ずるほどに満身に月光をあびて立っていた。

光瀬龍百億の昼と千億の夜』(早川書房)より。
版元・早川書房さんの紹介ページ↓
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/21000.html
漫画版版元・秋田書店さんの紹介ページ↓
http://www.akitashoten.co.jp/comics/4253170021
小社は、岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』を校正しながら、光瀬龍百億の昼と千億の夜』を思い出していました。
百億の昼と千億の夜』の「第二章 オリハルコン」(萩尾望都による漫画版では「第1章 アトランティス幻想」)にはプラトンが登場するのです。
この日本SFの傑作を読み返しながら、作者光瀬龍は、アトランティス伝説の話題を引き出すためだけにプラトンを登場させたのではなく、『百億の昼と千億の夜』という作品にはプラトンティマイオス』と『クリティアス』を作家がどう読んだか、その読書体験が反映されているのではないかと感じられました。
何回かに分けて、作家の描いたプラトンの旅に憑きそいながら、『百億の昼と千億の夜』のなかにプラトンの痕跡を探してみました。
今回が最終回、前回は↓
http://d.hatena.ne.jp/hakutakusha/20151127/1448622298

デーミウールゴス

アトランティスの末裔が住むというエルカシアを訪れたプラトンは、眠りのなかで不思議な啓示を与えられます。
夢のなかでプラトンは、アトランティスの支配者・アトラス王家に仕えてアトランティス王国の行政を取り仕切る司政官オリオナエという人物として行動し、アトランティスの滅亡を目の当たりにします。
作者・光瀬龍がオリオナエの役職を「司政官」としたことに、以前は気にも留めていませんでした。意味もよく調べずに行政官のことだろうくらいに思っていたのです。
ところが、今回あらためて調べてみると、「司政官」とは軍政下の植民地の行政官という意味で、太平洋戦争中、日本軍で使われた言葉でした。
つまり、アトランティスは植民地だったというわけです。
司政官オリオナエとして目を覚ましたプラトンは、財務長官オイローパを伴ってアトランティスの命運を決める会議におもむく途中、次のように問いかけます。

「オイローパ。このポセイドンの都、栄光と豊饒にあふれるこのアトランティスの都が亡びるときのありさまを考えたことがあるか」
 こんどはオイローパがその問いに答えようとせず、回廊の広大な壁画に目を当てつづけていた。
「いや、これはきびしい問いであったか。オイローパ。私とて三、四日前まではそのような心弱いことなど露ほども考えたことはなかった。しかしほんとうはそれは真剣に考えておかなければならない問題であったのだ。われわれは豊かな生活と安楽に狎れ過ぎていたようだ。うかつであったよ」
 オリオナエは眼下の灯の海にもう一度、視線を投げると、衣のすそをひるがえして柱廊を奥へむかった。

会議には王国各地の王(地方の知事)が列席し、さらにその上に君臨するアトラス王家の王アトラス七世と、父王のポセイドニス五世が臨席していました。
ちなみに、アトラス七世は「最高神祇官」だとされていますから、彼も絶対君主ではなく本国の意向を神意として伝える現地責任者という役割なのでしょう。
アトラス七世が本国の意向として司政官と王たちに命じたのは王国の移動でした。
この方針に、司政官を先頭に王たちは口々にそんなことは無理だと異をとなえます。
議事がこう着したところで、父王ポセイドニス五世が司政官たちの忠誠心を試すように問いかけます。

「されば王国の建設の理念は、司政官。言え!」
 オリオナエは憑かれたように立ち上った。解っているのだ。そんなことは解っているのだ。今さら王国の建設の理念など、われわれにとってなんになろう。
「新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏。アスタータ五〇における惑星開発委員会は、〈シ〉の命を受け、アイ星域第三惑星にヘリオ・セス・ベータ型開発をこころみることになった。これによって、惑星開発委員会の存在が原住民に与える影響、すなわち〈神意〉の発現形式としての宗教の発生……」
 オリオナエは自分の口が耳まで裂けるのを感じた。彼は壇上にそびえるものに向って絶叫した。
「神は実在であると説くよりも、なぜ惑星開発委員会は実在すると説かなかったのだ!」

ファンなら忘れられないだろう前半の名場面の一つでしょう。

植民地アトランティスの本国とは、地球外のどこか、アスタータ五〇と呼ばれる星にあるらしい惑星開発委員会という組織でした。そして人類に与えられた文明は、惑星開発委員会のほどこしたヘリオ・セス・ベータ型開発の結果に他ならなかったのです。
プラトンを主人公として、古代伝奇ロマンのように物語られてきたストーリーが、このオリオナエの絶叫で一気にSFらしくなる場面です。
百億の昼と千億の夜』は、この後のストーリーで、地球はおろか銀河系を含むこの宇宙が、惑星開発委員会のさらに上位にある〈シ〉によって造られた世界であることが明らかにされていきます。
いかにも壮大なSF的ストーリーですが、この設定こそ、作者・光瀬龍プラトンティマイオス』をSF作家としての目で読み込んだ痕跡であるように思われるのです。
ティマイオスは、「制作者」「父」「構築者」とも呼ばれる神、「造り主」デーミウールゴスによって制作されたものとして、この宇宙の発生を語っているのです。
まさに惑星開発委委員会ではありませんか。
光瀬龍の傑作『百億の昼と千億の夜』は、デーミウールゴスによって造られた存在である人間が、それにもかかわらず、自らのアイデンティティと宇宙の命運をかけて絶対者に挑む物語でした。
そこにはプラトンが想定していなかったグノーシス的要素も混入しているのですが、それはまた別の話、ということにいたしたく思います。