寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。
それはひとときたりともやむことはなかったし、嵐の朝はそれなりに、なぎの夕べはそれらしくあるいははげしく、時におだやかにこの青い世界をゆり動かし、つたわってゆくのだった。
光瀬龍『百億の昼と千億の夜』(早川書房)より。
版元・早川書房さんの紹介ページ↓
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/21000.html
漫画版版元・秋田書店さんの紹介ページ↓
http://www.akitashoten.co.jp/comics/4253170021
小社は、岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』を校正しながら、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』を思い出していました。
『百億の昼と千億の夜』の「第二章 オリハルコン」(萩尾望都による漫画版では「第1章 アトランティス幻想」)にはプラトンが登場するのです。
この日本SFの傑作を読み返しながら、作者光瀬龍は、アトランティス伝説の話題を引き出すためだけにプラトンを登場させたのではなく、『百億の昼と千億の夜』という作品にはプラトン『ティマイオス』と『クリティアス』を作家がどう読んだか、その読書体験が反映されているのではないかと感じられました。
何回かに分けて、作家の描いたプラトンの旅に憑きそいながら、『百億の昼と千億の夜』のなかにプラトンの痕跡を探してみます。
今回は第4回、前回は↓
http://d.hatena.ne.jp/hakutakusha/20151109/1447039879
イデア論
サイスの隠退神官からアトランティス文書を借りだしたプラトンは、同地の司政官イススの館で歓待を受けます。
「司政官」という言葉は、この小説の主な登場人物の一人オリオナエの役職名としても出てきますし、日本SFには眉村卓「司政官シリーズ」もありますが、ふだんは使いません。
辞書などで調べてみると、これは軍政下の植民地の行政官という意味なのですね。太平洋戦争中、日本軍で使われた言葉でした。
しかし、プラトンが生きた時代のサイスは他国の植民地とは言えません。
『ティマイオス』にも名前が出てくるサイス朝のアマシス王が、サイス市内のギリシア商人が築いた貿易港に対してギリシア人の自治を認めて以来、その港町はギリシア人の自治区になっていたとか。
光瀬龍はここで「司政官」という言葉を、このギリシア人自治区の行政長官という意味で使っているものと思われます。
さて、物語は、プラトンが司政官おかかえの御用学者エイモスの質問に応える場面です。
「イ、イデアは不変でしょうか」
エイモスはふいに頭をあげるとたたきつけるようにいった。
――そう、それでいい。
プラトンは体ごとエイモスに向きなおった。
「イデアは客観的存在として実在だ。つまり思考内容ではなく、思考者の外にある思考対象だからだ。この経験世界は現象であり、イデア界の受容的投影だ。この受容の態度の不安定さが万物流転という変動であらわれてくるのだ。したがってその流転の中に在ってつねに普遍的、客観的なるものの存在を追求してゆかなければならないのだ」
意識して積極的に答えた。
これが歴史上のプラトンの説いたイデア論の正確な説明かどうかまではわかりませんが、少なくとも光瀬龍がこのようにプラトンを読んだのだということは言えると思います。
ところで、この『百億の昼と千億の夜』は無常観SFと評される場合もあるようです。
そこで、上掲のプラトンのセリフにも「万物流転という変動」あるので、これも作者光瀬龍の東洋的な無常観の投影かとも思われますが、そうでもないようです。
小社刊『ティマイオス/クリティアス』に収められた訳者・岸見一郎さんによる「訳者解説『ティマイオス』の宇宙論」から該当箇所を引きます。
この現象の世界は、永続性のあるものから成る世界ではなく、「そのようなもの」が現われては消える特定の諸性格の「変動するパターン」、「そのようなもの」が場の中に入ると知覚に現れ、そして、再び、またそこから消滅していく。
かなり似ています。
それどころか、このまま『百億の昼と千億の夜』の文中にこっそり挿入しておいても気づく人は少ないのじゃないかと思うほどです。
「万物流転という変動」云々は東洋的な無常観の反映ではなく、プラトンのイデア論にそもそも含まれている考え方だと言えそうです。
ただし、岸見さんの解説によれば、『ティマイオス』におけるプラトンのイデア論はそれまでとは違って「事象がうつし出される「場」(コーラー)が導入」されているのだそうです。
小説中のプラトンのセリフにはこの「場」への言及の無いところが惜しいという気もします。
長くなりましたのでこの続きはまた。