白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

プラトン最後の旅3―光瀬龍『百億の昼と千億の夜』より

 オリオナエ? 誰だ、それは?
 心の中で憂鬱な問いが湧き上ってきたが、つぎの瞬間には、
 ああ、そうだ。おれのことなのだな。プラトンは心の中でうなずいた。
 少し疲れているな――プラトンは自分の足が他人のそれのように感覚が失われているのが妙にもどかしくたよりなかった。

光瀬龍百億の昼と千億の夜』(早川書房)より。
版元・早川書房さんの紹介ページ↓
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/21000.html
漫画版版元・秋田書店さんの紹介ページ↓
http://www.akitashoten.co.jp/comics/4253170021
小社は、岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』を校正しながら、光瀬龍百億の昼と千億の夜』を思い出していました。
作者光瀬龍は、単にアトランティス伝説の話題を引き出すためにプラトンを登場させたのではなく、『百億の昼と千億の夜』という作品にはプラトンティマイオス』と『クリティアス』を作家がどう読んだか、その読書体験が反映されているのではないかと感じられました。
何回かに分けて、作家の描いたプラトンの旅に憑きそいながら、『百億の昼と千億の夜』のなかにプラトンの痕跡を探してみます。
今回は第3回、前回は↓
http://d.hatena.ne.jp/hakutakusha/20151106/1446807496

プラトンとは誰のことか?

百億の昼と千億の夜』の作中でプラトンが読んでいる古文書「アトランティス文書」は、プラトンの未完の著作『クリティアス』からの抜粋でした。
作中のプラトンは、実在したプラトンの著作を読んで、アトランティスの痕跡を探す旅に出るのです。
この、合わせ鏡のような、あるいは入れ子構造のような設定は、登場人物にも見られます。
百億の昼と千億の夜』の作中人物のプラトンは、祖父クリティアスからアトランティス伝説を聞いたことになっています。

 そもそも、彼が最初にアトランティスなる名前を知ったのは、祖父のクリティアスからであった。クリティアスはまだ少年であるプラトンに、クリティアスがおのれの若い頃『七賢人』の一人であるソロンから伝えられたことを、老人らしい充分過ぎるほど充分な論理的経過をもって説明したのであった。
 少年プラトンの胸に、その内容は異様な重みをもって深く沈着した。いつか、その話の奇怪な内容をおのれ自身の目や手でたしかめてみたいものだと思った。

ここで光瀬龍が『ティマイオス』と『クリティアス』をどう読んだか、ヒントが見つかるように思います。
比較のために、岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』からクリティアスのセリフを引きます。

さて、ソロンは、詩のいたるところで自分でもいっているように、私の曾祖父であるドロビデスとは親戚であり、大の親友だったのだが、こんな話を私の祖父であるクリティアスにしたというのだ。そして、老いた祖父が、それをわれわれにも繰り返し話してくれたのだ。

このように、プラトンの『ティマイオス』では、老クリティアスからアトランティスの物語を聞くのは、ソクラテスの友人であり、祖父と同名の孫クリティアスです。

ところが光瀬龍は、このクリティアスをプラトン自身のことと置き換えています。
ソクラテスの友人クリティアスはプラトンの母の従弟なので、老クリティアスはプラトンにとっても曾祖父にあたるのだから、『百億の昼と千億の夜』の設定にも一理あると考えることもできますが、ややこしくなるのでその話は棚上げにしておきましょう。
実際、プラトンの対話篇に登場するクリティアスは、作者プラトンの分身と考えることも十分可能な解釈の範囲内でしょう。少なくとも光瀬龍はそのように解釈したのです。
プラトンの対話篇『クリティアス』の登場人物クリティアスがプラトン自身のことだとすると、その『クリティアス』を読む『百億の昼と千億の夜』の登場人物プラトンとは、いったい誰のことになるのでしょうか?
作者光瀬龍自身か、それとも……。
長くなりますのでこの続きはまた。