白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

矢野久美子『ハンナ・アーレント』中公新書

矢野久美子著『ハンナ・アーレント』 (中央公論新社)を読みました。
実は、著者の矢野久美子さんからご恵贈いただいたのですが、忙しさにまぎれて感想を申し上げるのがすっかり遅くなってしまっていたのでした。すみません。
とにかく面白いのです。キャッチフレーズ的に言えば、激動の時代を生き抜いたアーレントの生涯と思想がコンパクトにまとめられた一冊、ということになるのでしょうが、それを過不足なくできるのはアーレントを読みぬいた矢野さんなればこそと、感嘆しきりです。
なお、小社刊『シティズンシップの政治学』の著者、岡野八代さんによる書評「友と共に、世界に生きる喜び 『ハンナ・アーレント』矢野久美子」はこちら↓
http://wan.or.jp/book/?p=7787
岡野さんの共感のあふれる書評に付け加えることなどありませんが、矢野さんのご本のなかからとくに興味深く読んだ箇所を抜粋しておきます。
第3章で『全体主義の起源』を「強制収容所というかたちで結晶化した現象の諸要素を、それらが具体的に現れた歴史的文脈のなかで分析し、語った」と指摘している箇所。

反ユダヤ主義」や「帝国主義」の部で語られる諸要素は、けっして必然的に全体主義へと直結するわけではない。アーレントの叙述を注意深く読むと、そこには行為者かつ受苦者としての人間の選択のあり方、動き方が描かれている。別の可能性もありえた、それなのにどうしてこのような事態にいたってしまったのか、ということを考えさせる物語なのである。

「別の可能性もありえた、それなのにどうしてこのような事態にいたってしまったのか」という反省の仕方は、情緒的な後悔の裏にはしばしば「どうせこうなるよりほかなかったのだ」というあきらめが隠れていることを思いあわせると、前向きな姿勢のように感じられました。
第4章では、在野の哲学者エリック・ホッファーとの交友にページを割いているのが印象的でした。そのしめくくりの一節から。

人間を自動化し、自然化することは、人間を予測可能な自動機械に変えることである。そのことを全体主義的支配者は理解していたし、現代社会でもその危険性は十分にある。思考や叙述のスタイルはまったく異なるが、ホッファーとアーレント現代社会にたいするまなざしには重なり合う部分があった。

もう一つ、第5章で、『暗い時代の人々』に収められたレッシング論について語っているところ。

たとえば「国内亡命」のように、自由な動きができない暗い時代に人びとが思考へと退却する場合でも、「動き」が重要となる。思考に動きがなくなり、疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を、アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び、全体主義の特徴と見なしたのである。
「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。

「思考の動き」のお手伝いをするのも出版という仕事の役目かなと、ちょっとうぬぼれてみたりしながら、味わい深く拝読しました。