白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

お岩様の顔

書店さまからお電話をいただきました。
お客様から「お岩様はほんとうは美人じゃなかったという本はないか」とお尋ねがあったが、おたくの新刊はそれにあたるのか、とのお問い合わせ。
売上は多いにこしたことはありませんが、しかし、このお問い合わせに「ハイ、小社の本をどうぞお薦めください」とお答えしてよいものかどうか悩みました。
小社刊『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』には、お岩様は顔に疱瘡の跡があって醜かったと書かれています。
しかし、そのことを主張するために書かれた本ではありませんし、醜い女の幽霊という設定は『死霊解脱物語聞書』の累さんについての描写の影響もあっただろうと考えられています。
それにそもそもお岩様ご本人の顔を確認するすべは今やありません。
とはいえ、ご質問の主旨は別のところにあるのかもしれません。
「お岩様はほんとうは美人じゃなかったという本はないか」とのお尋ねだったそうです。
これはつまり、お岩様は美人だったというのがふつうなんだけれども、実はそうではなかったということを述べている本はないかということでしょう。
こうしたご質問がでる背景には、おそらく鶴屋南北東海道四谷怪談』の影響があるのだろうと思います。
歌舞伎の舞台の上では、お岩様は初め、美しい顔で登場します。
先日、すべりこみで歌舞伎座の『東海道四谷怪談』を観てきました。
実は本を作るのに忙しくて、この7月に歌舞伎座で上演されていた『東海道四谷怪談』を見そびれるところでした。
正直言うと、もうあきらめかけていたのですが、横山泰子先生から「今度のお岩様は若くてきれい。一度見ておいた方がよい」とすすめられて、天井桟敷にもぐり込んだのです。
尾上菊之助の演じる「お岩」はたしかに美しいものでした。ついでに言いますと、市川染五郎伊右衛門の色悪ぶりも見事で、劇評が総じて絶賛だったのもうなずけました。
さて、お岩の美しい顔が、顔の変わる毒薬を飲んだがために、恐ろしい悪女(醜女)の顔に変わる、この場面が『東海道四谷怪談』前半の見せ場です。
南北の歌舞伎では、お岩様はほんとうは美人なのに毒薬で醜くされてしまうのです。この設定は多くの人が印象深くおぼえておられることでしょう。映画もほとんどがこの設定を引き継いでつくられています。
ところが、南北以前の「四谷怪談」では、お岩様は「いたつて悪女なり」(唐来山人『模文画今怪談』)、「其見苦敷事喩る物なく、女の数に難入風情」(『四ッ谷雑談集』)などと、はじめから醜かったとして描かれています。
つまり、美しかった顔が毒薬によって醜く変わるというドラマチックな場面は、南北によって導入されたのです。文政八年(1825)に初めて『東海道四谷怪談』の舞台を観た江戸の観客たちは、その斬新なアイデアに驚いたことでしょう。そして南北の『東海道四谷怪談』が広く知られるにつれ、やがて「四谷怪談」と言えば南北の歌舞伎のことになり、それ以前のさまざまな「四谷怪談」のことは忘れられていったのでしょう。
ですから、「お岩様はほんとうは美人じゃなかったという本はないか」というご質問の主旨を、南北の歌舞伎以前の「四谷怪談」について書いた本はないかという意味だと解すれば、もちろん小社の『実録四谷怪談 現代語訳『四ッ谷雑談集』』がそれにあたります。ぜひご一読ください。