白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

読者から『リスク社会の授業づくり』に

今月初めに刊行した『リスク社会の授業づくり』に読者からの感想が寄せられました。
ブログ掲載のご許可をいただきましたので、ご紹介いたします。

著者のこれまでの主張が、3.11以後の状況からさらに深化して展開されている。
とりわけ5章の文章が著者の物語として印象的であり、他の章への総論的な位置を占めていると感じた。
論争、物語、争点のある授業については、「授業技術」の観点から別の機会に論じてほしい。

「授業技術」という言葉をカッコでくくっていらっしゃるのは、この言葉の一般的な意味に対してなんらかの留保があるものと推察いたします。
さて、ご指摘にある『リスク社会の授業づくり』第5章「自律した授業プランづくりということ」は「ここでは、個人的な経験をベースとした文体で記す」という文章から書き出されていて、最初の節(1「倚りかからず」と震災)は、詩人・茨木のり子さんの有名な詩「倚りかからず」の紹介から始まります。

この詩は、3月の震災とその後の政府やジャーナリズム、そしてその道の専門科学者の言動から私が学び取った教訓そのものである。今回の震災は「想定外」と言われたが、実は過去にもこれに匹敵する地震津波があった。原発は「安全」ということだったが、事態は悪化の一途をたどり、放射線被曝した人を増やした。途中の報道も含めてまったくのウソだった。政府・電力会社・ジャーナリズムの言うことはウソだった。
(中略)
だから、政府発表、報道発表をそのまま鵜呑みにしては、生命の安全が守れないことがはっきりした。これが今回の震災とその後の対応の中でわかってきた教訓である。倚りかからない、とりわけ権力や権力に近い位置にいる者に倚りかからないことが必要なのである。だからといって、自己責任ですべてを判断していくことなど不可能だ。確かな情報、根拠のある知識が生きていくために必要なことも明らかだ。(『リスク社会の授業づくり』p86)

それではどうしたらいいのか? とくに教育はどうあるべきなのか?
続く三つの節で著者はこの問いに応える思惟の歩みを簡潔に示しています。
2 三つの違和感から原発放射線の授業づくりへ
3 教育内容研究と子どもの判断の尊重
4 自分で授業を構想する試みへ
これは、直接には次の第6章で提示される「授業プラン:原子力発電と放射能の危険性」を構想する経緯を語ったものですが、読者のご指摘のように本書全体のテーマにかかわる文章でもありますね。
ていねいに読み取ってくださって、ありがとうございました。