白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(U.エーコ,J=C.カリエール著/工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ刊)を読みました。
 本書は、イタリアの記号学者・哲学者で『薔薇の名前』(邦訳・東京創元社)などの小説の著者としても著名なウンベルト・エーコ氏と、フランスの作家・劇作家で、脚本家として映画「ブリキの太鼓」や「存在の耐えられない軽さ」、ブニュエルの諸作品も手がけているジャン=クロード・カリエール氏という、2人の老練・博識な愛書家が繰り広げる、書物にまつわる対談です。
 対話はまず、電子書籍と紙の本についてから始まります。文字は人間が発明した伝達技術であり、ラジオや映画、テレビが発明されたときにも、印刷された書物から何かが奪われたかといったら何一つ奪われなかったことを考えればインターネットでも然りと、2人の話は息が合っています。
 さらにカリエール氏が、今ではほとんど失われてしまった古代ローマの巻物状写本で、ヴァチカンの図書館に残っているウェルギリウスの『農耕詩』を引き合いに出すなど、グーテンベルクの印刷術以前の巻物なども視野に入れた話が展開されます。
 さて、フロッピー、CD-ROM、MOなどのパソコンデータの記憶媒体が次々と姿を消すなか、保存にも移動にも便利な媒体である紙の書物が優れていることは「科学的に検証済み」としたうえで、自宅が火事になったら何を真っ先に守るかとカリエール氏に問われたエーコ氏はこう答えています。

E:書物の話をさんざんしておいてなんですが、私の場合、今まで書いたものすべてが入っている、二五〇ギガの外付けハードディスクを持って逃げますね。それ以外にも、何か持って逃げられるとしたら、今まで集めた古書のなかで、必ずしもいちばん高価とはかぎらないけれども、いちばん気に入っているものを選んで持ち出そうとするでしょう。ただ、問題があって、どうやって選ぶかということです。あんまりゆっくり考える時間がないほうがいいな。そうですね、ベルンハルト・フォン・ブライデンバッハの『聖地巡礼』でしょうか。シュパイヤーのドラーハという出版社が一四九〇年に刊行したもので、折りたたみ式の大きな版画のついた素晴らしい本です。
C:私の場合はたぶん、アルフレッド・ジャリの手稿、アンドレ・ブルトンの手稿、それから直筆書簡が入ったルイス・キャロルの本ですね。オクタビオ・パスの身に降りかかった悲しい出来事の話をしましょう。書庫が焼けたんです。悲劇です! それも考えてもみてください、オクタビオ・パスの書庫ですよ! 世界中のシュルレアリストたちが彼に贈った直筆サイン本の数々。ここ数年で、いちばん悲しい事件でした。

まったく、それは実に悲しい話ですね。
二人の愛書家ぶりを示す問答をもう一つ。「死海文書」が発見されたように、建築現場から偶然出土するとしたらなにがいちばん欲しいか、と尋ねられて。

E:私は、グーテンベルク聖書がもう一冊出てきたら喉から手が出るくらい欲しいですね。最初の印刷された書物ですからね。アリストテレスが『詩学』のなかで言及しているけれども、散逸してしまった悲劇も出てきてくれたら嬉しいかな。(中略)
C:私の場合は、マヤのコデックスで未知のものが見つかったら大喜びしますね。一九六四年に初めてメキシコに行ったとき聞いたんですが、目録上は数十万のピラミッドが計上されているんですが、発掘調査したのはそのうちたった三〇〇なんだそうです。(以下略)

 また、神秘学と疑似科学に関する古書の収集家であるエーコ氏と、『珍説愚説辞典』(邦訳・国書刊行会)を編纂したカリエール氏が、バカと間抜けと阿呆の違いを真剣かつ熱く語るのも実に楽しい。

E:それはそうと、ある定義には達しておきたいですね。我々の対談のテーマにとっても、おそらく非常に有益だと思いますよ! 私はある本のなかで馬鹿と間抜けと阿呆を区別しました。

議論はエーコ氏のこの発言から始まり、カリエール氏と丁々発止の応酬が続くのですが、議論の発端になった「ある本」がなんなのか、明示されていないのが気になります。もしかするとエーコ氏の全著作に目を通せば見つかるかも知れませんが、まんまとかつがれたことになるかも知れません。というのも、「私自身、ウンベルト・エーコの贋作というのをでっち上げたことがありますよ」ともエーコ氏は言っていますから、ことによると、氏の小説『フーコーの振り子』(邦訳・文藝春秋社)を読んで氏に電話をかけてきたというテンプル騎士団の総長(自称)と同じ轍を踏むことになるかも知れません。
この議論にはカリエール氏がいったんオチを付けるのですが、二人の対話は止まりません。

C:愚かしさの研究をしていて最初に気づくことは、自分自身が馬鹿だということです。当然です。他人のことを馬鹿呼ばわりしていれば、彼らの愚かしさが自分に差し出された鏡だということに気づかないではいられません。変わることのない、克明で忠実な鏡です。
E:すべてのクレタ人は嘘つきであるというエピメニデスのパラドックスに陥らないようにしましょう。クレタ人なんだから、彼は嘘つきなんです。もしどこかの馬鹿が、自分以外は全員馬鹿だと言うなら、その馬鹿が馬鹿だからといって、もしかしたら本当のことを言っていないともかぎりません。さて、もしその馬鹿がそのうえ、自分以外も全員「自分と同じように」馬鹿だと言ったなら、それは知性の証しです。したがって彼は馬鹿ではありません。なぜなら彼以外の人間はみな、(以下略)

さらに話題は、二人が読んだ本についてだけではなく読んでいない本、現代では失われてしまった本、失われたことすら知られていない本、元もと存在していない本についてまで及び、ここまでくると、どこまでが本当でどこからがホラ話なのかなんてどうでもよくなってくる気がしてきます。
 電子書籍によって紙の本は無くなるのかどうかという議論自体が陳腐に思えるほど豊かな書物の世界がここにあります。

E:ロンドンで実施されたアンケートによると、回答者の四分の一がウィンストン・チャーチルやチャールズ・ディケンズを架空の人物だと思っており、ロビンフッドシャーロック・ホームズは実在の人物だと思っていたそうです。
C:無知な人々というものは、そこらじゅうにいて、しばしば無知の何が悪いと開き直っています。熱心に仲間を増やそうとさえしています。無知は自信に満ちていて、狭量な政治家たちの口を借りて、その優位を宣言します。そして、ひ弱ではかなく、つねに脅威にさらされ、自信なさげな知こそおそらく、理想を追い求める人々の最後の砦です。知るということは本当に大切なことだとお思いになりますか。
E:基本中の基本だと私は信じていますよ。
C:最大多数の人々が最大多数の物事を知るべきでしょうか。
E:最大多数の人間が過去を知るべきかというご質問でしたら、答えは「はい」です。過去を知ることはあらゆる文明の基盤です。樫の木の下で、夜、部族の物語を語る老人こそが、部族と過去をつなぎ、古の知恵を伝えるんです。(以下略)

続きはご自分で読んでみてください。