白澤社ブログ

人文社会系の書籍を刊行する小さな出版社です。

「出版ニュース」誌で『牡丹灯籠』紹介

横山泰子・斎藤喬ほか著『〈江戸怪談を読む〉牡丹灯籠』が「出版ニュース」2018年9月上旬号で紹介されました
該当箇所を抜粋させていただきます。

『牡丹灯籠』は死霊に取りつかれた男の妖しくも恐ろしい恋の顛末を描いた怪談として江戸時代から今日までさまざまなジャンルで改作が描かれてきた。本書は中国の怪異小説を起源とする『牡丹灯籠』の世界を辿る。因果応報と怨みが際立つ怪談噺のなかで『牡丹灯籠』の特徴は美しき恋物語であることだ。ここでは中国の原話『牡丹灯記』については岡本綺堂の訳を紹介。そして江戸から明治にかけて活躍した三遊亭円朝の口演『怪談牡丹燈籠』の妙味を堪能しながら、その誕生秘話から文学史的な位置づけ、さらに江戸庶民の間に怪談噺がもてはやされた背景など、『牡丹灯籠』の魅力が伝わってくる。

出版ニュース」さん、ありがとうございました。

西日本新聞で『牡丹灯籠』紹介

2018/08/22付 西日本新聞夕刊で横山泰子・斎藤喬ほか著『〈江戸怪談を読む〉牡丹灯籠』が紹介されました
https://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_new/article/443300/
該当箇所を抜粋させていただきます。

男が美しい死霊に取りつかれる「牡丹灯籠」は、最も有名な怪談の一つ。原話は中国から伝わり、江戸時代に何度もリメークされた。浅井了意の翻案、三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」、幕末の世間話、狂歌など、牡丹灯籠系怪談と呼べる物語群を収録。

西日本新聞さん、ありがとうございました。

中外日報で『牡丹灯籠』が紹介

中外日報8月10日付で、横山泰子・斎藤喬ほか著『〈江戸怪談を読む〉牡丹灯籠』が紹介されました。
中外日報は仏教を中心に、日本の宗教界のニュースを報道する老舗の専門紙です。
中外日報社さんのホームページ↓
http://www.chugainippoh.co.jp/
小社の『牡丹灯籠』の紹介記事の掲載された8月10日付の一面トップは「得度者に比叡山研修」との大見出しで、浄土真宗本願寺派で、得度者に比叡山延暦寺での研修を必修とする方針を固めたことが報じられています。
ううむ、なんだかすごいです。
さて、『牡丹灯籠』は「中外日誌」のコーナーで、書影の写真付きでご紹介いただきました。

見出しは「「牡丹灯籠」を幅広く解説」。
要点を抜粋させていただきます。

白澤社(東京都文京区)は「江戸怪談を読む」シリーズの一冊『牡丹灯籠』をこのほど刊行した。

どうでもよいことかもしれませんが、「白澤社(東京都文京区)」とカッコで所在地を示すあたり、いかにも新聞記事といった感じでわくわくします。

横山泰子・法政大学教授をはじめ、文学・民俗学・宗教学など専門を異にする5人の著者が集い「牡丹灯籠」を原話・類話・妖怪画・狂歌から幅広く解説した。
中でも最も有名な落語家・三遊亭円朝の『怪談牡丹燈籠』は「近代小説の手本」とも見なされ、明治以降の文学に影響を与えたことで知られる。

と、本の概要、テーマに関連して最も有名なエピソードを手際よく紹介してくださったうえで、「しかし」と続け、編集担当者の企画意図を伝えていただきました。

円朝はこの噺を江戸時代から語っていたはずなので『江戸怪談』に位置付けました」と話す。

ここは結構こだわったところなので、とりあげてくださってうれしいです。
記事の後半は、さすが、宗教の専門紙だけあって、先だってこのブログでも書いた「雨宝陀羅尼経と海音如来」↓についてとりあげてくださいました。
http://d.hatena.ne.jp/hakutakusha/20180803
中外日報さん、ありがとうございました。

「週刊金曜日」で『母の憶い、大待宵草』が紹介

週刊金曜日」6月8日(1187号)で、古川佳子著『母の憶い、大待宵草』が紹介されました。
週刊金曜日さんのサイト↓
http://www.kinyobi.co.jp/
紹介してくださったのは佐高信さん。
同誌に連載中の「憲法を求める人びと」で古川佳子さんをとりあげたなかで、著書『母の憶い、大待宵草』にも言及してくださいました。
佐高さんは、七つ森書館さんから出ている田中伸尚氏の編著書『これに増す悲しきことの何かあらん』のタイトルのことから語りはじめます。

この題名は古川の母、小谷和子の「是れに増す悲しき事の何かあらん亡き児二人を返せ此の手に」から採られた。古川は近著『母の憶い、大待宵草』(白澤社発行、現代書館発売)の「はじめに」に、この歌は古川にとっての兄2人を戦死させた国家の暴力を見据えて「天皇の戦争責任を生涯思い続けた母の憤怒であった」と記す。
この本の跋に田中が書いているように古川は「何とも静やかでおっとりした人」だが、1976年に箕面忠魂碑違憲訴訟に踏み切った勁さを持つ。

古川さんの勁さの源はなんなのか。佐高さんは次のように指摘します。

古川は1927年に生まれた。城山三郎藤沢周平と同い年である。まさに青春の真っ只中に軍国主義の焼き印を押されたが故に、精神の支配には全身で抵抗する。古川にとって忠魂碑訴訟は自らの青春を取り戻す闘いでもあった。

また佐高さんは「古川は、この闘いの過程で、さまざまな人に出会った」ことにもふれています。
このさまざまな出会いこそ、『母の憶い、大待宵草』のテーマで、同書の副題が「よき人々との出会い」とされている理由です。
「何とも静やかでおっとりした人」が、どのような人々とどのような出会いをしたかについては、『母の憶い、大待宵草』の目次を下記に公開していますのでご覧下さい。
https://indd.adobe.com/view/54b1cb81-9d0b-4e87-8868-d6c61e9136b8

佐高信さん、ご紹介をいただき、ありがとうございました。

子安宣邦編著『三木清遺稿「親鸞」』が紹介

浄土真宗本願寺派総合研究所のサイトで、子安宣邦編著『三木清遺稿「親鸞」―死と伝統について』が紹介されました。
浄土真宗本願寺派総合研究所仏教書レビューのページ↓
http://j-soken.jp/read/9493
評者は芝原弘記(浄土真宗本願寺派総合研究所研究員)さん。
浄土真宗本願寺派といえば、本書『三木清遺稿「親鸞」』の主題である親鸞を祖とする宗派です。本書をどのように読んでくださったのか、小社としても興味津々です。
少しご紹介します。
評者の芝原さんは本書を「「三木清という哲学者が親鸞聖人をどのように語っているのか、ちょっと読んでみよう」という軽い気持ちで手に取った」のだそうです。「結果、希有なる一冊に出会えたことを喜んでいる」と、書いてくださいました。
いったい、どういうところが「稀有」であったのか。
芝原さんは、本書の「他にはない独自性」として、「遺稿「親鸞」を通して三木清と出会った、子安宣邦の体験の物語として編まれている」と指摘しています。
実際、本書は単なるアンソロジーではありません。
編著者である子安先生自身、次のように述べられています。

私は三木の遺稿「親鸞」が読み直されることを願っている。だがそれが本当に読み直され、三木の思念が我々に再生するかどうかは、この時代を我々の内においても外においても根源的な転換が遂げられねばならぬ末法の時代として自覚するかどうかにかかっている。(本書22頁、編者による序「遺稿「親鸞」から三木清を読む」(子安宣邦)より)

三木が親鸞をいかに読んだかを、現代のわれわれはいかに読み解くべきか、この問題意識に貫かれて編まれた一書が『三木清遺稿「親鸞」』です。
この点を、芝原さんはご自身の思いも重ねて次のように書かれています。

子安は遺稿「親鸞」を、「三木自身のための親鸞論」であり「〈私的〉な性格を持った著作」(11ページ)であると評する。〈私的〉とは、三木にとって「自己の人間と生のあり方への反省に立つものである」(同ページ)ということである。つまりここには、昭和の戦前戦中という激動の時代を生きた三木清という人間において体験された宗教があらわされているということができる。そして、それは三木個人の体験で終わるものではない。三木は親鸞聖人の思想について、「悉く自己の体験によって裏打ちされている」(23ページ)という。つまり、阿弥陀如来の本願という真実に照らされて、末法内存在の凡愚であることを自己の体験として生きた親鸞聖人、その親鸞聖人の思想を自分自身の生の出来事として体験的に受けとめ、遺稿「親鸞」を著した三木清、その遺稿「親鸞」を通して三木と出会った体験を一冊の書物として世に送りたした子安宣邦、さらには、評者もまた、本書を読み終えたとき、親鸞聖人の思想を自分自身に寄せて体験的に受けとめようとする思いを持った。本書は、そのように幾重にも重なる「体験」によって貫かれているように思われた。


芝原さん、心のこもったご紹介をいただき、ありがとうございました。

『法学セミナー』で『カントの政治哲学入門』紹介

小社刊『カントの政治哲学入門──政治における理念とは何か』(網谷壮介著)が、『法学セミナー』2018/04号「新刊ガイド」欄で紹介されました。
「他者とともに自由になる『義務』?」という見出しで、有名なカントの難解さについてふれて「そんなカントの極端な議論に今日的な意義はあるのだろうか?」と疑義を呈してみせた後、次のように締めくくられています。記事の後半部分から抜粋します。

本書は晩年の『人倫の形而上学・法論』(1797年)に拠りながら、カントの共和主義的な法・政治哲学を明快に解説する。もっとも「万人の自由の両立」としての共和制が現実に実現されることはない。しかしカントにとって重要なのは、理念と現実の区別である。確固たる理念あってこそ、不完全な現実を理念へと近付ける試行錯誤が可能になる。平等な他者とともに自由になることこそが「権利でありつつ義務」であるとするカント独特の法・政治哲学は、現代の法と政治を批判する視点をいまも提供し続けている。

『法学セミナー』さん、ありがとうございました。
ところで今日はホワイトデーですね。

巷のカント君たちは義理チョコのお返しはすませましたか?
まだの方は、今からでも書店に走って『法学セミナー』でも好評の『カントの政治哲学入門』をお菓子に添えると、甘いお菓子にピリリとしたカントの顔が薬味となって、贈った方も贈られた方も「他者とともに自由」になった気分になれるかもしれません。

信濃毎日新聞に『カントの政治哲学入門』書評

小社刊『カントの政治哲学入門──政治における理念とは何か』(網谷壮介著)が、2018/3/11付 信濃毎日新聞読書面で紹介されました。
「理念に基づく国家 必要性訴え」との見出しの躍る書評を執筆してくださったのは立命館大学山本圭准教授。
山本さんは『不審者のデモクラシー ラクラウの政治思想』(岩波書店)などのご著書で知られる政治学者です。
以下、本件の特殊性に鑑み、要点を抜粋してご紹介します。

カントの政治哲学の現代性にせまる稀有な入門書

この書評で山本さんは、政治とは「国の予算を決めることや、日々新しく生じた課題の解決に向けた立法」だけではなく、「それを通じて何某かの理念を実現していく、そのような長期的な共同プロジェクト」でもあるはずだと説きおこし、「政治における理念の必要性を徹底して考え抜いたその人こそ、イマニュエル・カント、本書の主人公」だとします。

本書はカントの「政治哲学」の入門書である。「政治哲学」とは一般に、自由御や平等、正義や暴力、さらには政治体制など、いわび政治的な諸概念について哲学的に問うものだ。とはいえ、じつのところ、カントの思想は「政治哲学」としてはあまり読まれてこなかった経緯がある。そのようななか、本書は、近年の研究成果を取り入れつつ、カントの政治哲学の現代性にせまる稀有な入門書となっている。

カントの政治哲学のエッセンスを平易に叙述

次に山本さんは、本書の各章のテーマをたどり「カントの政治哲学のエッセンスが平易に叙述」されているとしたうえで、次の点に注目します。

とりわけ眼を引くのは、カントの描く共和制である。カントは普遍的な法のもとで、万人の自由が両立する国家のあり方を「共和主義」と呼ぶ。このような理想的な政治体制へむけた漸進的なあゆみこそ、政治の役割として提示されるのだ。

迷走する現代政治のあり方を根本から考えるよう力強く訴えかけてくる

そして、「現実を見ない政治は空虚だが、理念を欠いた政治は迷走する」という著者の言葉を引いた上で、書評を次のように締めくくっています。

理念とは、単なる誰かの夜郎自大な妄念ではなく、むしろ個人や個別の経験から独立した普遍的なものである。本書は、入門書という体をとりつつも、文字通り迷走する現代政治について、そのあり方を根本から考えるよう私たちに力強く訴えかけてくる。


まさしく政治が迷走する最中に書かれたアクチュアルな書評。
山本圭さん、信濃毎日新聞さん、ありがとうございました。
本書は、全国の主要書店で好評発売中です。